明智光秀の足跡を訪ねて②焼き討ちの古址、延暦寺【前編】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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明智光秀の足跡を訪ねて②焼き討ちの古址、延暦寺【前編】

季節と時節でつづる戦国おりおり第349回

■険阻な山塞

 旅の最初は、比叡山延暦寺。麓からケーブルカーで11分昇ると根本中堂の少し下に着きます。それにしても、比叡山は険しい。

 こんな険阻な山塞を、元亀2年(1571)9月12日(奇しくも訪問は9月14日。旧暦と新暦の違いはありますが、447年と2日後ということになります)に織田信長の軍勢は焼き討ちしました。その兵数は、宣教師の記録によれば3万といいますが、そんな人数ではとてもこの広大で高低差の激しい山域はカバーできないと思います。

 寺の関係者が山襞の奥に隠れてしまえば到底見つけることができなかったでしょう。

 天台宗の山門派本山、延暦寺。

 信長による焼き討ちについては、『信長公記』にこう書かれています。
「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞(うんか)のごとく焼き払い、灰燼の地となるこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘(はいもう)を致し、取る物も取りあえず、悉くかちはだしにして八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げこみ、諸卒四方よりときの声を上げて攻め上る。僧俗・児童(にどう)・智者・上人一々に首をきり、信長公の御目にかけ、これは山頭(比叡山上)においてその隠れなき高僧・貴僧・有智(うち)の僧と申し、そのほか美女・小童そのかずを知らず召捕り、召しつれ、御前(おんまえ)へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、これはおたすけなされ候えと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に首を打ち落とされ、目も当てられぬありさまなり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせ(状態)なり」。

 この比叡山焼き討ちについては「織田軍による老若男女・僧俗の皆殺し」という話が定着していますが、これは考えを改めた方が良いと思います。
おそらくは一部の建物の焼き討ちだけがおこなわれた程度だったのではないでしょうか。

 むろん、開催は本日限りとか。時間もジャストに訪れることが出来たのは、きっと神のお引き合わせでしょう。

 

 ケーブルカーの車内からパチリ。
 標高848mは伊達ではありません。

 すごい高さ。

 ケーブルカーを降り歩いて上を目指すと、途中の駐車場のかたわらに石碑があります。

 

 家康のブレーンとして知られた、南光坊天海僧正の住居跡碑。

 天海は延暦寺ほかで学んだあと比叡山焼き討ちを逃れて甲斐におもむき、会津へ移り、その後関東で暮らして徳川家康の知遇を得たといいます。 

 彼が京の鬼門を守る延暦寺を真似て江戸城の鬼門に寛永寺を開いたというのは有名な話ですが、この場所で修行していた時代の天海はのちに自分がそんなことをするとは予想だにしなかっただろうと思うと、なんだかおかしさがこみあげてきますね。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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