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赤松満祐の死で収束するも応仁の乱の火種を残す

室町幕府の権威が失墜した事件の顛末を追う⑤

■力をつけた山名持豊(宗全)は将軍の後継をめぐって細川と争うことに

赤松満祐討伐に、後の応仁の乱で西軍大将となる但馬守護・山名持豊が搦手として活躍。『本朝百将伝・山名宗全』国立国会図書館蔵

 嘉吉元年7月11日、京都を出発した討伐軍は西宮に本陣を据え、一部は兵庫まで進軍した。この直後、兵庫で合戦が行われ、両軍に大きな被害があった。京都では軍費調達のため、山名持豊が「借物」と称し、強制的に金銭を借用するなど混乱が相次いだ。幕府が赤松氏討伐の綸旨を奏請したのは、7月26日になってからだった。治罰の綸旨を申請したのは、持之が指導力に自信を持てなかったという理由がある。しかし、この綸旨の奏請は武家の私闘のため、反対意見が続出した。持之は永享の乱を先例とするよう主張したため、ようやく8月になって下された。

 8月19日、細川成春率いる軍船が塩屋の関を来襲し、赤松軍を討ち破った。須磨に在陣していた幕府軍は、一気に明石の人丸塚へ進軍する。迎え撃つ赤松軍は有利に戦いを進め、幕府軍を須磨へと追い返した。しかし、25日には幕府軍の反撃に遭い、赤松軍は敗走する。一方、山名氏の軍勢は、赤松氏の領国美作を侵し、垪和氏以下の国人・被官人らを従えた。さらに8月28日、持豊の軍勢は、生野坂から大山口に侵攻し、赤松軍を破った。翌29日以降、山名軍は粟賀から市川を渡り、赤松氏の居城・坂本城を攻撃し、赤松氏の国人らを降伏に追い込んだ。満祐らは坂本城を脱出し、城山城へと逃れた。そして9月10日、山名軍は城山城に総攻撃を仕掛け、ついに赤松氏を討滅した。こうして満祐は、一族とともに自害して果てたのである。

 

 同年9月18日、満祐と安積行秀の首が京都の山名持豊のもとに届けられ、21日に四条河原へと移された。その首は、赤松邸の焼け跡の樗の木に懸けられた。こうして赤松氏一族は守護としての地位を失い、いったん歴史上から姿を消してしまうことになる。赤松氏が再び歴史上に姿をあらわすには、いささかの時間を要するのである。

 嘉吉の乱がもたらした幕政への影響は、大きなものがあった。これまで義教は独裁政治というべき専制権力を掌握していたが、後継者である義勝は8歳の子供にすぎなかった。むろん単独で政治的な判断ができるわけもなく、管領の細川持之の補佐が必要であった。嘉吉2年に持之が亡くなると、畠山持国、山名持豊に支えられ、将軍権力は弱体化することになる。この現象は、義勝の夭折後に将軍職を継いだ、義政の代にも見られるようになる。

 その後、斯波氏や畠山氏が家督をめぐって争うなかで、力をつけたのが細川勝元と山名持豊(宗全)である。将軍の後継者問題をめぐって、義視派と義尚派に分かれたとき、それぞれのバックについたのが勝元と持豊であった。もはや有力守護の存在無くして、幕政の運営は不可能だった。つまり、嘉吉の乱を契機にして、将軍権力が著しく低下し、有力守護家が代わりに力をつけたといえよう。そこに将軍家や有力守護の家督相続をめぐる混乱が加わり、応仁・文明の乱につながったのだ。

 (次回よりシリーズ「応仁の乱」が始まります)

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渡邊 大門

わたなべ だいもん

1967年生。歴史学者。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。 『本能寺の変に謎はあるのか?』晶文社、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』PHP新書、『明智光秀と本能寺の変』ちくま新書、『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』草思社文庫など著書多数。


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