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メダリストは何で恩返しをするのか。船木和喜の答え

Q2・ジャンプの支援活動に力を入れる理由を教えてください。

もう今から20年前になる。1998年、長野オリンピックの名シーンと言えば、スキージャンプ団体ラージヒル。原田雅彦さんが「フナキィ~」と声を絞り出して祈る中、4人目の船木和喜さんがジャンプを成功させて金メダルを獲得した。船木さんは個人ラージヒルでも金、個人ノーマルヒルで銀メダルを獲得。ワールドカップ通算16勝は日本最多勝利数である。  船木さんは長野オリンピック後に独立しスポーツマネージメント会社を設立しその他、食品事業もはじめアップルパイを手掛ける実業家は、ジャンプの普及、支援活動にも熱心で、指導者の顔をも併せ持つ。そして42歳の今なお現役のジャンパーだ。船木さんの「金メダル後の人生」に迫る。第2回。

【前回まで】五輪金メダリスト船木和喜が「新宿のビルで上から下まで飛び込んだ」理由

■〝日の丸飛行隊〟に聞きに行った話

――支援活動に取り組もうと思ったきっかけは?

 

船木 独立して自分の会社を立ち上げたときに、事業計画をいろいろと立てなきゃいけなかったんです。箇条書きにしてバーッと並べて、その中から良さそうなものを定款に入れました。将来的に育成、普及の運動をするかもしれないなというぐらいの考えで、最初から頭にしっかりとあったわけではなかったんです。

――1972年の札幌オリンピックでメダルを独占した〝日の丸飛行隊〟の先輩に話を聞きに行くことで、その思いを強くしたと聞きました。

船木 メダリストは何で恩返しをしていけばいいか、やっぱりメダリストの人に聞くのが一番いいと思ったので。笠谷幸生さん(金メダル)、金野昭次さん(銀メダル)、青地清二さん(銅メダル)と3人がそれぞれ行政に働きかけて、いろんな学校に行ったそうです。すると北海道内の炭鉱という炭鉱にジャンプ台ができて、その数は230カ所にのぼったそうです。小学校の授業に、ジャンプが入った。そんなみなさんのご尽力を知っている年配の人は、札幌オリンピックのことを忘れない。じゃあ長野オリンピックで、メダルを獲った自分はどうなんだろうと思ったときに凄く恥ずかしくなったんです。

 

――メダリストが動くことで、環境も変わっていく、と。

船木 そうだと思います。元々、デサントでコーチとして指導していただいた八木弘和さんは1980年のレークプラシッドオリンピックで銀メダルを獲得されて、子供たちの試合に顔を出して指導している姿を僕も知っているわけです。僕もメダリストになったわけですから、それは当然やっていかなきゃいけないことだと思いました。

――ジャンプに取り組むにはジャンプ台など環境面もそうですが、道具にもお金が掛かります。船木さんはジャンプに取り組む子供たちのための支援活動を、継続的に行なっています。

船木 いろいろと聞いたら道具が足りないという状況を知ったので、ジャンプスーツやヘルメットなどを支援したいと考えました。とはいえ、やり始めてからまだ7、8年ぐらいのものです。アイテムは7000個以上になりましたけど、本当は5年で1万アイテムというのが目標でしたから。

――江別市には手づくりの小さなジャンプ台も整備しています。個人のスポンサーではなく、ジャンプに取り組む少年団のスポンサー探しにも奔走されています。

船木 支援にもっと関わっていきたいという思いはあります。別に、アイテムを届けたとかスポンサーを探したとかで満足感、達成感はありません。少しでも喜んでくれる顔を見たいって、それだけですから。この少子化社会でジャンプをやってくれる子供たちが、一人でも増えてくれたらうれしい。ちょっとでもその力になるならという思いだけです。

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