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本能寺に火を放ち自刃した信長

覇王・織田信長の死生観 第8回

天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る!

 

 本能寺に火を放ち自刃した信長

 明智軍が襲ってきた時、本能寺に宿泊していた者は、小姓衆・厩番衆・中間などの小者、それに京都内から連れてこられた女性たちを合わせても、100人余りにすぎなかったのではなかろうか。一番乗りで本能寺に攻め込んだという本城惣右衛門は、正面から入ったが、広間に1人の姿も見えず蚊帳だけが吊られていた、しばらくして庫裏りのほうから白い着物を着た女が1人やってきた、と証言している。広い境内に100人余りだから、無人に近い状態だったのだろう。

 本能寺には信長のいる「御殿」のほかたくさんの建物があり、家臣たちはそれぞれに散っていた様子である。最初に敵襲を受けたのは、外側の「御厩」にいた厩番衆である。陸奥出身の馬術の達人矢勝介をはじめとする武士たち、中間衆も明智軍の兵と戦って討ち死にした。

 森乱・坊・力の3兄弟、そのほかの小姓たちは御殿に集合し、信長の周囲を固めた。信長自身最初は弓を取って2、3度矢を放ったが、じきに弦が切れてしまい、今度は槍を取って戦った。だが、肘に手傷を負うと、ここで戦うことをあきらめた。そして、御殿に火を放つことを命じ、奥に姿を消した。

「殿中奥深く入り給い、内よりも御南戸(納戸)の口を引立て情なく御腹めされ」と『信長公記』に記されている。森乱兄弟ら近臣たちも、信長に殉じる形で討ち死にしてゆく。襲撃は1時間ほどだったと思われる。本能寺はやがて炎に包まれていった。

 長男の信忠をも倒さなければ、謀反は完成しない。明智軍の主力は妙覚寺に移動した。信忠は隣の二条御所に移っていた。信長が誠仁親王に献上した御殿である。親王一家を避難させ、信忠は約1000の兵を指揮して果敢に戦った。明智の大軍を3度にわたって押し戻すほどの奮戦だったという。

 だが、最後は力尽きた。遺骸を隠すよう遺言して腹を切ったと『信長公記』に記されている。

<次稿に続く>

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谷口 克広

たにぐち かつひろ

1943年、北海道生まれ。横浜国立大学卒業。戦国史研究家。織田信長研究の第一人者。主な著書に「織田信長家臣人名辞典」(吉川弘文館)、「信長と消えた家臣たちー失脚・粛清・謀反」(中公新書)など。


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