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保守的な美術界から叩かれても大成 横山大観はいかにして巨匠となったか

個人美術館で辿る日本人画家の生涯①

◆美術館での名声を得ても近寄りやすい人柄だった

 茨城・五浦にあった自宅が火災で焼失したのに伴い、池之端へ移り住んだ当時の大観は、日本画の大家として画壇に君臨していた。
「といっても、決して高尚で敷居の高い存在ではなく、今で言う売れっ子のイラストレーターのような感じでしょうか。『鉦鼓洞(しょうこどう)』と名づけられた1階の客間には当時、大観が再興に力を入れていた美術院のメンバーだけでなく、各界のさまざまな人々が訪れ、交流を図っていたそうです。この客間には重要文化財の『不動明王立像』が置かれていますが、運よく空襲に遭う前に持ち出され、焼失を免れました」と佐藤さん。

 画室は2階にある。不忍池を望むことができ、「生々流転」「夜桜」といった代表作もここで生まれた。足腰が弱った晩年には、1階の第二客間が画室になった。窓からは、四季折々に表情を変える庭園が見える。ひときわ目を引くのが、細川護立侯爵から送られたという大きな庭石だ。
 横山大観記念館は、自分の死後は邸宅と庭園を公的資産として日本美術界のために役立てて欲しい、という大観の遺言によって設立。戦後、空襲の爪痕が残る東京駅で働く職員を励ますために富士山の絵を寄贈するなど、「国のために」という気持ちが人一倍強かった、いかにも大観らしい所業だろう。

雑誌『一個人』2018年3月号より構成〉

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