◆教育勅語の何が問題か

 先に述べたように、人間とは不確定な存在である。「人間とは何か」ということは部分的には語れても、普遍的な真理として確定できない。「本当の教師」も「教師らしい教師」も「あるべき子どもの姿」も「子どもらしい子ども」も確定できない。その時代や社会の優勢的な考えに合わせて暫定的に語れるだけである。

 ブランスの社会学者、ピエール・ブルデューは〈彼ら(学校の教師)は、取得した知識を授けるが、彼らが説く真理を超えたところに、より高次の真理が君臨しているとは思いもよらないのである〉と述べ、〈高次の真理が君臨している〉ことを確信しているようだが、人間の生き方を説く聖書や仏典は一貫性も論理も通っておらず、事実関係が矛盾しているだけでなく、不自然、不合理なことが平然と書かれている。

 仏典にかんしてはどうしてそうなるのか専門家である友人に聞いたら、「仏教には『正しい理屈・理念』に見合う普遍的理念はありません。……『我』そのものが実体のないもの(空・くう)である以上、真実そのものが存在しないからです」と明解に教示され、これは納得した。

 最近「教育勅語」の再評価やら、それを教材としてなら使っていいなどと「行政のちから」がかまびすしいが、あの人間像(臣民像)が望ましい人間のあり方(実体)として確定されれば、それを根拠に体制に有利なさまざまな「象徴的暴力」(文化、真理、理念)を行使できるからであろう。

 世界の宗教の中で、管見(かんけん)では儒教の経典だけが論理的、合理的であり、「君子」という理想的人間像が設定してある。聖書、仏典の捉えどころのなさに比べてすこぶる明解である。論が一貫して立ちやすく、〈正論〉が構成されやすい。

 従って、その〈正論〉から現実や世界を位置づけようとする。しかし、そんなことをしても社会や人間の複雑さに適応できないことはいうまでもない。人間や社会や世界は論理的でないからである。

『教育改革の9割が間違い』より構成>