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意外にドラマチック!? 「埼玉県」ができるまで

埼玉地名の由来を歩く⑤

全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、古代武蔵野国の歴史をたどる。

「埼玉」県名の成立過程

 以上で、埼玉県のルーツが行田市の「埼玉」にあったことはご理解いただけただろう。

 問題は、明治以降になって、どのような経緯でこの「埼玉」が県名に採用されたかである。

 古墳群の一角に「埼玉県名の由来」という碑が建立されているが、その中に、「埼玉」が県の名称とされたのは、“当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる”と書かれている。どれくらい広かったかを示したのが、下の図である。

写真を拡大 武蔵国の郡の分布

 確かに秩父郡を除けば埼玉郡がいちばん広い面積を占めていた。

 簡単に明治初期の埼玉県名成立の経緯を述べておく。
 まず、少しややこしいが、明治政府が慶応4年(1868)4月、「府藩県
三治(さんち)制」を敷いたことから始めなければならない。これは全国を「府」「藩」「県」の3つに分け、そのうちまず「府」と「県」を掌握しようとしたものである。

「府」とは「江戸府」「京都府」「大坂府」「神奈川府」など旧幕領の主要地で、10府置かれた。この段階ではまだ「藩」はそのまま手つかずで、政府が直接治めることのできる地域を「県」とした。埼玉県では明治2年(1969)1月28日に「大宮県」が置かれたが、同年9月29日、浦和に移され「浦和県」となっている。やはり、大宮と浦和は別格扱いだったようである。

 そして、明治四年(1871)7月14日、世に知られる「廃藩置県」が断行された。これはそれまで存続していた「藩」を「県」という名に変えただけのことであって、全国に302もの「県」ができた計算になる。埼玉県下では「忍県」「岩槻県」「川越県」が成立している。

 しかし、この廃藩置県は暫定的な措置で、政府は半年後の明治4年11月14日、それまであった「浦和県」に加えて「忍県」「岩槻県」を統合して「埼玉県」としている。と同時に「川越県」を「入間県」とした。

 ここに初めて「埼玉県」という県名が誕生した。実は「大宮」「浦和」地区は旧足立郡の所属であったが、忍県と岩槻県は旧埼玉郡の所属であって、その占める面積も圧倒的に広かったので「埼玉県」としたということである。

 先に紹介した碑の説明と同じ理屈である。この時点では「埼玉県」と「入間県」が両立する状態だったが、図を見ればわかるように、埼玉県エリアでは、秩父郡を除けば圧倒的に「埼玉郡」と「入間郡」が広かったのであり、その郡名を採用したことにはうなずけるものがある。

 この時点での埼玉県庁は埼玉郡の中心地である岩槻に置かれることになったが、この方針はわずか1か月で変更を余儀なくされる。

 明治4年12月6日、県令野村秀らが県内を視察した結果、岩槻は不便なので浦和に県庁を置くことに決定したという。この時点から、「埼玉郡」ではない浦和に「埼玉県庁」が置かれる矛盾が始まっている。

 一方、「入間県」は明治6年(1873)に「熊谷県」となり、一時期群馬県に編入されるなどの運命にさらされたが、最終的には明治9年(1876)8月21日、現在の「埼玉県」が確定している。

埼玉県の成立過程

 やはり、古代から続いてきた「埼玉郡」の本拠地の力が強かったということである。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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