ノンフィクション作家、谷川彰英が名古屋をたどる。寺院の数が日本一多い愛知県。『名古屋地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より、名古屋の街並みの魅力を紹介する。

小牧・長久手の戦い

 秀吉VS信雄・家康の戦いは一般に「小牧・長久手の戦い」とされている。

 小牧では両軍とも膠着(こうちゃく)状態が続いていたが、戦闘がなかったわけではない。天正12年(1584)3月17日、秀吉はまだ犬山城に到着しておらず、先鋒隊の一人森長可(ながよし)が功を焦って羽黒まで軍を進めたが、家康軍の武将の酒井忠ただ次つぐと戦い敗れるという事件があった。

 両軍は膠着状態を続けていたが、先に敗戦に至った森の女婿に当たる池田恒興(つねおき)が名誉回復を図るために、ある戦略を考えついた。

 それは「中入り」という戦略だった。「中入り」とは対峙している敵方の軍の後ろに一部の軍勢を回して、双方から挟み撃ちにする戦略である。池田恒興は家康の居城の岡崎城を攻めて攪かく乱らんするという手法を秀吉に進言した。

 確かにこの戦術は成功すれば大きな成果を収めることができる。しかし、当時の戦いは隠密を使った情報作戦でもあった。仮にその戦略が敵に知られていれば、ひとたまりもない。はじめ秀吉はこの戦略に乗らなかったようだが、最終的にはゴーサインを出すことになる。

 しかし、案の定、この戦略は家康側につつ抜けであったらしい。4月7日羽柴秀次を大将とし、池田恒興・元助父子、森長可、堀秀正らが1万5千の軍勢を率いて三河に向かって出陣した。

 ところが家康軍はそれと前後して小牧山を出て、秀吉軍を挟み撃ちにすべく長久手に軍を向かわせた。

 家康は現在の色金山(いろがねやま)歴史公園に陣を構え、秀次軍の来るのを待ち伏せていた。そんなこととは知らずに通りかかった秀次軍は突如の急襲に総崩れになり、池田父子も森も戦死し、秀次はやっとの思いで秀吉のもとに帰ったという。

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