豊臣秀吉も気に入った! 海外では雑器に過ぎない焼き物を日本で高値で売りさばいた“やり手”貿易商 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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豊臣秀吉も気に入った! 海外では雑器に過ぎない焼き物を日本で高値で売りさばいた“やり手”貿易商

季節と時節でつづる戦国おりおり第291回

貿易王に、俺はなる!?
君は呂宋(ルソン)助左衛門を知っているかい?

 助左衛門は安土桃山時代に貿易商としてルソン(フィリピン諸島中のルソン島)に渡り、日本の産物を売りさばいた後、空となった船倉に現地では雑器に過ぎなかった焼き物を「呂宋壷」として積み込み、帰国して豊臣秀吉と諸大名に高値で売りさばいたという“やり手”の人物です。

「呂宋」はあだ名で、本当は納屋助左衛門といったとのことなので、堺のセレブ「納屋衆」の一員です。納屋というのは倉庫業ですが、実態は貿易や国内流通にも携わる豪商たちでした。そのうちのトップ10人は、堺の自治を取り仕切る「会合衆」(一般に「えごうしゅう」と読まれることが多いですが、堺市では「かいごうしゅう」と読んでいます。事実、この組織は当時の仏教寺院の運営組織の会合衆を真似たものだと思われますが、そちらも「かいごうしゅう」です)の構成員だったそうです。

 この人物に関する史料はほとんど無いのですが、『堺鑑』『和泉名所図会』『和漢三才図会』から総合すると、天正年中の初夏にルソンへ渡り、文禄3年(1594)7月20日に唐傘1,000本、ロウソク1,000本、じゃ香2疋を船に積載して帰国。これらを、堺代官の石田正澄(三成の兄)を通じて豊臣秀吉に献上したといいます。このとき呂宋壷50個を秀吉の御覧に入れたところ、これを痛く気に入った秀吉は、「そのまま西の丸の広間に並べよ」と命じ、千利休に目利きさせて上中下にランク分けさせ、居並ぶ諸大名相手に売らせました。おかげで壷は5~6日で売りさばけ、残った3つは秀吉がみずから買い上げた、となります。おかげで大もうけした助左衛門でしたが、その後贅沢をとがめられて慶長3年(1598)、大安寺に家財一式を寄進してルソンに逃れたとの事。

 彼の出身地の堺では、大河ドラマで助左衛門が主役を張ってから2年後の1980年から市民会館の西南前にその銅像が置かれて着ましたが、今は会館が建て替えの工事に入ったため、堺旧港、大浜のマリーナの一角に移設されています。この銅像、移設前もしっかり海の方を見ていましたが、今は水門の横、整備された階段状の遊歩道の特等席にしっかりと立たれて、堺の海を日々眺めていらっしゃいます。
 手を振る先には出航する? 帰港する? 貿易船があるのでしょうか…。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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