全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。
壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

10万の追討軍が惨敗
平氏の命運を分けることになる

 寿永2年(1183)4月17日、信濃国横田河原の戦い以来、悪化するばかりの事態を打開するため、平維盛率いる北陸方面への追討軍が京都を出発した。『平家物語』は、追討軍を総勢10万余騎と記している——九条兼実の日記『玉葉』は4万余騎とする——。

 しかし、その大軍はいくつかの問題点もかかえ込んでいた。たとえば「先陣・後陣を決めることもなく、思い思いに我先にと進んだ」といわれる統制のなさ(延慶本『平家物語』)、行軍の途中「在々所々の家々に押し入って食料・物資を没収した」(同上)といわれる略奪行為などがあげられよう。
 都を出発して10日目の4月27日、平氏軍は越前国燧城(火打城。福井県南条郡南越前町)を攻め落とし、5月初めには加賀、さらに越中へと入った。燧城は木曽義仲方の平泉寺長吏斎明が守っていたが、その斎明が寝返り、平氏方に防衛上の機密情報を伝えたためである。しかし義仲側の対応は早く、5月9日の般若野(富山県砺波市)の戦いで平氏軍を破り、加賀国へ退却させた。

 5月11日、加賀・越中の国境にあたる倶利伽羅峠(砺波山山中。石川県河北郡津幡町と富山県小矢部市石坂の境)において、態勢を建て直し、あらためて峠を越えようとする平氏軍と、越中側から攻め寄せてきた義仲軍(北陸勢)とが激突した。倶利伽羅峠の戦いである。戦いの様子に詳しい『源平盛衰記』によると、そのあらましは次のようになろう。
 まず平氏軍は、維盛らを大将軍とする大手軍7万余騎が倶利伽羅峠へ、通盛らの率いる搦手軍3万余騎が北上して能登国の志雄山(志保山。石川県羽昨郡宝達志水町)へと向かった。

 

 これに対して、義仲軍5万余騎は7手に分かれ、叔父源行家の搦手軍1万余騎が志雄山へ向かい、義仲軍本隊3万余騎は倶利伽羅峠の北麓に陣を取った。また根井小弥太ら2000余騎、今井兼平ら2000余騎、樋口兼光ら3000余騎、余田次郎ら3000余騎、巴女ら1000余騎を峠の周囲に配置した——ただし南側一方のみは除く——。
 義仲軍本隊が峠の麓をおさえたのは、平氏軍に山中(猿の馬場付近)で陣をとらせるためである。すなわち、源氏軍が5万の兵力で平氏軍10万の大軍にあたるには、敵を山中にとどめ、そこに本隊および周囲に配置した陣から一斉に夜襲攻撃をかけるのが有効とみられたからである。

 義仲の作戦はあたった。険しく、狭い場所で眠っていた平氏軍は不意をつかれて狼狽し、意図的に空けてあった南側の谷へ向かい、そこからなだれをうって落ちていったという。
 なお『源平盛衰記』は、義仲軍が4〜500頭の牛の角に燃える松明をつけて平氏軍に突進させ、谷底へ落としたという、著名な「火牛の計」のエピソードを載せるが、これは中国の故事にちなんだ創作である。

 倶利伽羅峠で総崩れとなった平氏軍は、続いて加賀国篠原(石川県加賀市)の戦いでも敗れて京都へ逃げ戻った。総勢10万余騎で出発したとする『平家物語』はわずか2万余騎になって帰京したと述べ、『玉葉』は「4万余騎の勢、甲冑を帯ぶる武士、わずかに4・5騎ばかり」と記している。
 倶利伽羅峠の戦いのもつ意味は大きく、戦いから約2か月半後、義仲軍入京直前の7月25日、平氏一門は都落ちをすることになる。

◎次回は、5月7日(日)に更新予定です。