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「新選組」命名の謎

新選組、その知られざる組織の実態 第4回

「選」と「撰」隊名の漢字はどちらでもよかった!?

 新選組の隊旗には複数の目撃証言が残っており、様々なデザインが存在したようである。八木為三郎が証言した、赤地に白く「誠」と「ダンダラ(山形)模様」が染め抜かれたものが一般的である。一方、永倉新八はダンダラ模様がなかったと証言している。他にも、文字が「誠忠」になっているもの、「誠」の文字が金糸で刺繍されたものなどが伝えられている。ただ、残念ながら隊旗は現存しない。

 隊旗に似たデザインで現存している資料に「新選組袖章」がある。隊士が袖につけて、隊士である証とした腕章のようなもので、身分証明や同志討ちを避けるために使われた。これには白地に赤字で「誠」とダンダラ模様が描かれている。

 また隊名には、「新選組」と「新撰組」が存在する。隊内でも幕府からの感状でも、どちらの字も使われている。ただ新選組の上部団体である京都守護職・会津藩は主に「撰」の字を使っていた。

 ちなみに新選組は、文久3年(1863)3月に京都守護職お預かりとなってから、同年8月18日までは「壬生浪士組」と名乗っていた。

 それでは、新選組の隊名はどうやってつけられたかというと、新選組二番隊伍長の島田魁の日記に記載がある。これによると文久3年8月18日に「八月十八日の政変」があり、壬生浪士組に出動要請があった。この時の御所警護の功績が認められて、武家伝奏を通じて朝廷から「新選組」の隊名を下されたという。

 実は、もともと江戸中期の会津藩の軍政に「新撰組」という名称があった。その新撰組は諸芸に秀でた藩士の子弟30名が本陣の藩主の護衛役として加えられていたという。よって新選組の名は何もないところから生まれたのではなく、昔の会津藩にあった「新撰組」という名称が、会津藩から朝廷に上申され、壬生浪士組に与えられたのではないだろうか?

 ちなみに近藤勇が、元治元年(1864)5月に郷里へ送った手紙には「新選組」の印が押されている。

「選」と「撰」。現代人からすれば、どちらが正しいのか白黒ハッキリつけたいところである。しかし幕末の時代は「当て字」が横行していて、正しい漢字を書くというよりも読みが同じなら、どの字を使っても良いというのが実情だった。

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木村 武仁

きむら たけひと

1973年京都府生まれ。霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)学芸課長。専門は幕末・明治維新期における思想史と政治史。著書に「ようわかるぜよ!坂本龍馬」(京都新聞出版センター)、「図解で迫る西郷隆盛」(淡交社)。


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