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「糸割符会所を特定せよ!」

季節と時節でつづる戦国おりおり第278回

 いえ、そんな大仰なものではないんですが(笑)。前々回、茶屋四郎次郎たちが徳川家康に上申して始めた糸割符貿易について、堺の会所跡の碑を紹介しましたが、その具体的な場所についてなど、訂正と補筆をしておきます。

 

 この写真は、さかい利晶の杜(伝・千利休屋敷跡西隣りの堺市文化・観光拠点)のロビー床にプリントされている文久3年(1863)の「泉州堺絵図」の一部。真ん中あたりに赤く塗られている部分がありますが、そこに「常楽寺」「天神」という文字が入っています。天神は堺天神(菅原神社)で、常楽寺はその別当寺です。明治の廃仏毀釈で寺は廃絶されましたが、近隣の神社がここに集められました。

 前回、糸割符会所は商売繁盛の恵比寿さんの近くにあった、と書きましたが、境戎はこの明治の整理のときに500mあまり海岸寄りの戎島町から移されて来たものでした。訂正いたします。どうも申し訳ございません。ただ、完全に間違いでもありません。というのは、江戸時代この境戎の分祀である「蛭子社」がすでに菅原天神の境内に末社として存在していたからです。

 さて、その左下に「糸会所」とありますね。これが糸割符会所です。糸割符貿易の年総額はのちに金銀の海外流出規制のため銀9000貫目に制限されますが、それまで総額の37.5%を占めていた堺の儲けはかなりのものだったでしょうし、そのうちの相当額が幕府に上納されていたわけですから、大坂冬の陣で豊臣方が堺を焼き討ちするのも敵の軍資金を断つために当たり前の作戦だったんですね。 

 

 現在の町並み。正面奥(北)に伸びる道路の左側が菅原神社。イメージとしては、糸割符会所があったのは反対側の右の一角あたりから撮影している地点あたりまでを西端とし、東に広がる敷地だったと思われます。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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