討入りが行われた吉良邸跡(本所松坂町公園)
織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語!

吉良上野介を討ったのは、孟子の子孫!?

 日本の冬の名物詞である「忠臣蔵」。赤穂四十七士が主君の浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)の仇である吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を討ち取る物語です。この基となった「赤穂事件」において吉良上野介を斬り伏せた人物こそ、明(中国)にルーツを持つ「武林唯七(たけばやし・ただしち)」という一人の侍だったのです。

 唯七は江戸時代中期の1672年に赤穂藩士の子として生まれました。その祖父は「孟二寛(もうじかん)」と名乗った浙江省杭州の武林(ぶりん)出身の医師だったそうです。一説によると、古代中国の思想家として有名な「孟子」の61代目の子孫だと言われています。
 ところが、猛二寛は豊臣秀吉による「朝鮮出兵」の際に日本軍の捕虜となってしまいます。毛利家に預けられた後、医術などを買われ浅野家に侍の身分に取り立てられると、故郷の地名である「武林」を姓にして「武林治庵(たけばやし・じあん)」と改めます。その後、渡辺家から正室を迎えると「渡辺治庵」と改名したそうです。
 この渡辺家は、唯七の兄である尹隆(ただたか)が継ぐことになりました。ちなみにこの後、兄の尹隆は討入りに加わることを望みましたが、両親が病となったため、仇討という夢は弟に託すことになります。

 さて、唯七は兄に対して分家を興すことになりました。その時に選んだ家名が己のルーツである「武林」でした。
 武林家を再興した唯七は、文武の道に通じていたようで、主君の浅野内匠頭に側近く仕える中小姓(ちゅうごしょう)を務めていました。知行(給料)は15両3人扶持(約150万円の年収と3人分の配給米)であり下級武士に位置付けられる身分でした。

主君・浅野内匠頭の切腹

 そんな唯七に大きな衝撃が走ります。元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野内匠頭が高家肝煎(きもいり)の吉良上野介を江戸城内の松之大廊下で斬り付け、浅野は即日切腹となり、赤穂藩は改易となってしまったのです。
 江戸屋敷にいた唯七は堀部安兵衛(ほりべ・やすべえ)などと共に江戸の急進派に属し、今すぐにでも主君の仇討ちを果たそうと活動を始めました。

「吉良上野介を討ち取り、殿様の御恩に報いるべしである!」

 浅野の近習であり、誰よりも忠義に篤かった唯七は、そのような心持ちであったことでしょう。
 しかし、浅野家の家老の大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)は討入りに賛成しませんでした。なぜならば、内匠頭の弟である浅野長広を当主に据えられれば、浅野家を再興することが出来たためです。そのためには、討入りなどの騒動を起こすことは何としても避けたかったのです。

 当初、藩士たちの多くは大石に賛成し、討入りではなく御家再興に賛同していましたが、堀部安兵衛や唯七など急進派の説得により、浅野の一周忌を迎える3月に討入りを行おうという流れに変わり、大石もこれに一度は賛同しました。

 
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