歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。

今年を賑わわせた、大河ドラマ「真田丸」も遂に最終回を迎える。今回は、大河ドラマでその動向が注目された、豊臣家最後の当主、豊臣秀頼を鑑定する。

豊臣 秀頼(1593-1615)
生年月日:文禄2年8月3日(和暦)
西暦1593年8月29日(グレゴリオ暦)

 

それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。
・日柱の干支:「乙酉」(きのととり)
これは「秋」の「草花」を表す。秋の草や花といえば、ススキ、コスモス、キンモクセイ、キク…可憐で目立たず主張がないイメージである。穏やかな性格で、荒波を立てず、誰かに頼って生きたい。秀頼もまさにそのタイプと言える。天下統一を果たした、偉大な父、豊臣秀吉の次男(三男)として生まれ、その跡取りとなった秀頼。生まれながらに周囲の期待を背負ってきた秀頼には、出来る限り争い事は避けたい、そんな一面があったのかもしれない。母親である淀殿は、政治面、軍事面にも関与し、大阪夏の陣の際には軍議にまでも口出ししたと言われる程、強い権力を持っていたようであるが、秀頼のほうにも母親に頼りたい!という思いがあったのであろうか?秋の草といえば同様に「乙酉」をもつ芸能人として、香里奈、SEKAI NO OWARI Fukase、益若つばさがいる。

次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。

・主星「正官(せいかん)」:真面目、几帳面で責任感が強く、プライドが高い星。名誉・名声を望み、見返りを期待せず、世の中の為に事を為そうという心意気を持っている。秀頼は、命式表の中に2つの「正官」を持ち合わせているため、その性質が強まっていると考えられる。秀頼は、生まれながらにして、豊臣家を守るという大役を担っていた。真面目でプライドが高い秀頼にはぴったりな役割であるが、家康に権力が移り豊臣家の存在を脅かされるような状況下では、その融通がきかないくらいの真面目さは、仇となったとも言える。大阪冬の陣を終え、豊臣氏の滅亡回避のために翻弄する人々を無視するかのように、豊臣家を守る唯一の打開策であった、大阪城の明け渡しや牢人を解雇するという徳川方からの提案に全く応じることなかった。かといって再び戦闘する態度も見せなかった。徳川方からすれば、大阪を含めた「首都圏」を掌握するには、豊臣氏を滅亡させる他に道はなかったのであり、大阪夏の陣へと発展してしまった。父親、秀吉から受け継いだ大阪城に強いこだわりとプライドを持っていたのであろうが、プライドが高すぎて周りが見えていなかったとも言える。

・自星「偏官(へんかん)」:行動的、攻撃的、野性的な星。考える前に行動する、血気盛んな若者のイメージである。最終的に籠城戦となった大阪冬の陣であるが、秀頼は、真田幸村、後藤又兵衛が提案した、伏見城、宇治、瀬田を占拠しようという計画に乗っていたようである。「薩摩旧記雑録後編」によると、秀頼は島津義弘に対し「織田有楽斎と大野治長の主張で籠城戦となったが、秀吉様依頼の恩義を忘れず、我らに参陣して欲しい」と述べ、籠城戦を選択したのは、織田有楽斎と大野治長であるとしている。秀頼の性格からしたら、黙っているよりも外に出て戦いたいという思いが強かったのであろう。

・「偏印(へんいん)」:ひらめき、アイディア、企画力がある頭のいい星。知的好奇心が強く飽きっぽいところもある。史料には秀頼がどのような策を立てたのか?そもそも策を立てたのか?の記述は私の知る限り見られないが、その場面があれば、才能を発揮したかもしれない。

・「傷官(しょうかん)」:芸術性が高く、キラキラしたものが大好き。また、傷つきやすくナイーブな星。豊臣家の跡取りとして英才教育を受けて来た秀頼。5歳頃から書を学び、学問にいそしみ、弓や槍、薙刀、居合い術、鷹狩りや茶の湯にも親しんだ。8歳の時の書「豊国神社神号」は子どもとは思えない立派な作品である。父・秀吉はキラキラ、ギラギラ好き、「桃山文化」の代名詞のような人であり、芸術性の高い絵画、屏風、器に囲まれ生まれ育ったと考えられ、それらの作品が秀頼にパワーを与えていたのだろう。

・「胎(たい)」:好奇心が強く、飽きっぽい。それゆえ、考えがコロコロ変わる可能性がある。新規開拓が得意な星。秀頼の特技は、「保守」ではなく、「新規開拓」。それを考えると、そもそも豊臣家を守るという役目や、大阪冬の陣、夏の陣の籠城という策は性に合わなかったのだろうか?

・「絶(ぜつ)」:エネルギーが最も弱い星。精神的孤独が強く、人に裏切られることが多い。方広寺鋳銘事件をきっかけに徳川家との関係が悪化した際、秀頼は自らの「親書」を諸大名に送っている。「御掟・御掟追加」や「五大老・五奉行」等により秀頼を補佐する体制が出来上がっていたので、秀頼からすると、当然多くの大名が自分の下へ参じるものと考えていた。しかし、その努力もむなしく、ほとんどの大名がこれに応じなかった。家康の下ですでに領土を安堵されていた大名にとっては、ある意味、当たり前、仕方のない決断だったのであろうが、秀頼から見ると、裏切りとも見える。精神的孤独が強い秀頼にとって相当ショックだったであろう。

・「沐浴(もくよく)」:好奇心が強く、飽きっぽい。芸術性も高く、思い立ったら何をするかわからない、興味深い星でもある。

<全体を通して…>
・どうやら秀頼は、「正官」のような真面目な部分と、「胎」「沐浴」のような好奇心が強く様々なことに挑戦したいというヤンチャな部分が混在している人物だったと言える。豊臣家の跡継ぎという大役を担ったことで、真面目な部分が全面に表れていたのであろうが、その裏では、挑戦欲、好奇心が渦巻いていたのかもしれない。
・いずれにせよ、命式からはリーダータイプとは言えない。どちらかと言うと、武将を影で支えるしっかり者の家臣、あるいは芸術家が向いているように思う。本来やりたいことをやりたいと言い出せる環境にはもちろんなく、秀頼としては生きにくい時代を生きることになってしまったのだろう。世襲の難しいところである。

大阪城は、元和元(1615)年5月8日に落城、城内の山里曲輪に籠城していた秀頼は、母・淀殿らと自刃して果てている。行年23歳。あまりにも早い最期である。その死を悼み、生存説がそこかしこで実しやかにささやかれ、小説や映画にもなっている。その実は定かではないが、偉大な父を継ぐ2代目として翻弄され早世した秀頼に、心から哀悼の意をささげたい。

■四柱推命とは?
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。ここでは、和暦をグレゴリオ暦に変換して鑑定している。
■用語説明
日柱の干支:その人の本質を表す重要な部分
主星(しゅせい):月柱の蔵干通変星で、その人を表す最も重要な星。主に仕事運を表す。
自星(じせい):日柱の蔵干通変星で、その人のプライベートな部分の性格を表す重要な星。
<参考文献>
川口素生 (2009). 豊臣一族~秀吉を輩出した謎の系譜~, 新紀元社
曽根勇二 (2013). 大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史) , 吉川弘文館