ドナルド・トランプを知るためには、ヒューイ・ロングを知らなければならない。 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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ドナルド・トランプを知るためには、ヒューイ・ロングを知らなければならない。

アメリカ大統領選挙を1930年代のポピュリズムから占う

1930年代アメリカのポピュリズムの戦い

 

 間もなく投開票が行われるアメリカ大統領選挙では、共和党の大統領候補であるドナルド・トランプが、劣勢の中でも未だ熱狂的な支持を集め続けている。トランプは、歯に衣着せぬ過激な発言によって、特に低学歴の白人労働者、農業従事者を中心とした大衆の支持を得ていると言われ、現代の「ポピュリズム」とも呼ばれている。

 アメリカの「ポピュリズム」については、以前の記事「「ポピュリズム」が絶対悪だと言い切ることはできない」にて述べた。1890年代にアメリカ中西部と南部において生じた、農民と労働者の社会運動としての「ポピュリズム」は、やがて二大政党の内部に取り込まれることで、独立した運動としては衰退していった。既成政党に取り込まれた「ポピュリズム」は、やがて「革新主義運動」や「ニューディール」を生み出す源流となっていったのである。

 

 固有の運動としては消滅した初期の「ポピュリズム」であるが、工業化、都市化と共に大衆社会化が進んだ20世紀前半のアメリカでは、むしろ広い意味での「ポピュリズム」の下地がより根強いものとなっていったと言えるだろう。

 そんな時代に、「ポピュリズム」の勢いに乗り、かのフランクリン・ルーズベルト大統領(1882~1945)と対決した人物がいる。ルイジアナ州において絶大な人気と権力を集中させ、ルイジアナ州知事と連邦上院議員を務めたヒューイ・ロング(1893~1935)である。

 

 話術の天才であったため、演説で政敵を罵倒し、笑いものにすることで聴衆の心をつかむのが抜群に上手く、選挙にめっぽう強かった。深南部にあるため開発が遅れたままだったルイジアナに多くの道路を建設し、ミシシッピ川に巨大な橋をかけ、教科書無料配布と医療の充実を行うことで、民衆の英雄となる。その一方で、強権を用いて政敵を追いやり、次第に州の権力を自分の意のままにする独裁者となっていく。ロングとは、このような人物である。

 「キングフィッシュ」というあだ名で呼ばれたロングが、ルイジアナにおける独裁的な権力を手中にし、連邦上院議員として大恐慌下で苦しめられている民衆の貧困対策である「富の共有運動(SOW運動)」を全米規模で打ち出して「ニューディール」と対決した時こそ、アメリカが最も「ファシズム」に近づいた時だった。三宅昭良著『アメリカン・ファシズム ロングとローズヴェルト』(講談社選書メチエ)では、そのように論じられている。

 

 ロングは、ルイジアナのウィンフィールドという街で自営農の両親から10人兄妹の6人目の子供として生まれた。彼が生まれた頃のウィンフィールドは、ルイジアナでも最も「人民党(ポピュリズムの政党)」支持者が多い地域であったという。

 放蕩な青年時代を過ごした後、ロングは一軒ずつ家を回って物を売り歩くセールスマンとなり、話術の才能を活かして優秀な成績を上げるが、不運に見舞われ解雇されてしまう。すると、政治家になる野心を抱いて大学に入学し、卒業後は弁護士となる。

 ロングが政治家を志したのは、ひとえに野心と権力欲からだったのだろう。その野心の実現のために、彼が利用したのはルイジアナにおける多数者である貧しい農民たちの存在だった。

 富の再配分による弱者の救済を訴え、大企業と金融資本を諸悪の根源として糾弾する。ロングは終始一貫して、かつて挫折した初期の「ポピュリズム」と同じ政治的スタンスをとったが、それは自らを民衆の一人として演出することで、挫折感にとらわれたまま苦しみ続けていた農民たちから、熱狂的支持を集めるためのものだったのである。

 ロングは、25歳で公共輸送事業の許認可権を持つ「鉄道管理委員会」の地位を選挙で勝ち取ると、値上げを申請してきた電話会社の重役や弁護士を公聴会で何度もやり込め、料金値上げ分を加入者に小切手で返金させるという結果を勝ち得るなど、徹底して大企業と対決し続けた。そのことで、ロングは民衆にとって英雄となる。

 一度はルイジアナ州知事選挙で落選するものの、その後は足を使った「ドブ板選挙」のような手法と、多額の選挙資金、大量の運動員の動員、そして“Every Man a King”(誰もが王様)というキャッチフレーズを用いた選挙戦によって、1928年に35歳で州知事に当選する。

 州知事となったロングは、重要ポストを自分に協力的な陣営の議員だけで独占するという人事を行うことで、自陣営の結束を強化し、権力を強めた。反対派の議員の抵抗も、自らを追い落とそうとする大企業の陰謀として糾弾することで、むしろ民衆の支持を高めていく材料とした。

 1932年に連邦上院議員選挙に立候補すると、争点を自らの政策の是非に絞り「ロングかロングでないか」という対決の構図を作ることで圧勝を収める。忠実な子分で「“O.K”アレン」と揶揄されたオスカー・K・アレン(1882~1936)に知事職を任せると、ロングは大恐慌下の全米政治に乗り出していった。

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大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


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