「人間はどう生きれば良いのですか?」という問いに現代の哲学者は口ごもってしまう…… |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

「人間はどう生きれば良いのですか?」という問いに現代の哲学者は口ごもってしまう……

現在観測 第3回

「大陸」と「英米」の分裂

 英語圏においてはドイツやフランスの現代思想のことを「大陸哲学」と呼ぶことがある。ヨーロッパよりもアメリカのほうがよほど「大陸」というイメージがあるのだが、これは英語の母国であるイギリスから見た「大陸」が、海を隔てたドイツやフランスに当たるからである。

 分析哲学とは、近代までの哲学よりもさらに厳密な方法を極めることで、より正確な真理を知ろうとするものである。そのため、数式を用いて答えを導き出す数学のように、記号式を用いて論じられることが多い。

 そういったスタイルを採る哲学者からすると、ニーチェやハイデガーなどの書物で採られている論述のスタイルは、曖昧で論理的な誤謬に陥っているものであり、真理を探求するための「哲学」の名に値するものではないと感じられる。彼らにとって、それは「哲学」ではなく「文学」に過ぎないものであった。

 一方で、「大陸」のスタイルを採る哲学者からすれば、「分析哲学」は近代までの論理中心の思考に囚われたままであり、未だに「究極的な真理」の探求を目指し続けているような、時代遅れのものと感じられてしまう。

  「大陸」と「英米」の分裂の具体的な例として次のようなものがある。

 ハイデガーにとっては、「無」というものが一つの大きな主題となっていた。しかし、分析哲学の観点からすると「無」という言葉は論理的に「何かを否定する」という意味しか持たないため、それをあたかも具体的なものであるかのように扱うのはただ不条理でナンセンスな思考に過ぎないものとなる。そのため、分析哲学の哲学者にとっては、ハイデガーの書いていることは正しいとか誤っているという以前に、何も意味を持たないものである。

 一方で、ハイデガーからすると分析哲学の思考はプラトン以来の西洋の哲学の思考法から抜け出ることのできていないものであり、哲学的な思索の本質を見落としているものとなる。

 このように、20世紀の「大陸」と英米の「分析哲学」という二つのスタイルの哲学は、そもそも「哲学」とはどのようなものであるのかという前提が大きく違っているために、お互いにお互いを「哲学」として見做し合わないほどに分裂してしまった。

 日本において現代の哲学としてドイツやフランスの思想が主に取り入れられたのは、明治以来、伝統的にドイツ哲学が主な研究対象とされてきたこと、進歩的知識人に好まれるマルクス主義と「近代批判」という点で相性が良いことなどが理由として考えられる。そして、「大陸」寄りの観点から、現代の英米の「分析哲学」は「哲学」として見做されないか、一部の専門的な研究者だけが研究をするものとされてきた。

 二つの現代思想の違いは、「文系」と「理系」のイメージの違いに例えるとわかりやすいかもしれない。「大陸哲学」は詩的な表現と多義的な“読み”が可能なスタイルであり、いわゆる「文系」的なイメージが感じられる。

 一方で、「分析哲学」は数式のように記号を用いて厳密な真理を探求するという点で、いわゆる「理系」的なイメージのスタイルが採られている。その点では、「大陸哲学」はいち早く伝統的な哲学のスタイルから離反し、反対に「分析哲学」は伝統的な哲学の延長線上にあり続けたと言えるだろう。

 文系的なイメージの「タートルネックの哲学青年」と、理系的なイメージの「ナンセンスが口ぐせの数式マニア」の二人が、それぞれお互いの考え方について議論をし合ったらどうなるか…少し、想像してみて欲しい。

 おそらく、完全に喧嘩別れに終わるか、お互いの深い部分に関する話題はやめて何か別の話題になるか…そういった情景が思い浮かぶことだろう。

オススメ記事

大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


この著者の記事一覧