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息子は信長…織田信秀が建てた万松寺

鈴木輝一郎 戦国武将の史跡を巡る 第19回

岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

 

 うつけ信長が抹香を位牌に叩きつけた……あの寺だ!

大須万松寺は天文9年(1540)、織田信秀が立てました。織田信長のお父さんです。
宗派は曹洞宗。正式には亀嶽林万松寺といいます。
スマートフォンでは場所がわからず、道を聞いたら「わかりにくいですよ」と言われ、商店街地図を貰って探したら、やっぱりわかりにくかった。
お寺というと、塀に囲まれて門があって墓地があって、といったつくりになっているんですが、万松寺はいきなり本堂になっています。
 

 

余談ながら、このフォトエッセイで、人の顔にモザイクの網掛けをしたのは今回が初めて。
古戦場やら城址って、意外と人通りがないもんです。
名古屋から大須に移転した当時、境内は22309坪あったとのこと。
大正元年、万松寺大円覚典和尚が境内を庶民に開放し、大須観音の門前市と一緒になって大繁華街となった。太っ腹な和尚さんですな。
だから大須万松寺商店街にはいった時点で境内にはいったも同然で、寺門がないのはそのためらしい。
メインはやはり織田信秀の墓。
線香売り場と稲荷堂の間の地下道をくぐると、織田信秀のお墓があります。
 

 

 
織田信秀は天文21年(1552・没年には諸説あり)3月3日、42歳で病死しました。喪主は織田信長。
で、このとき信長は太刀と脇差をしめ縄で腰にくくりつけ、袴もはかず、仏前に出たときに抹香を信秀の位牌に叩きつけた。有名な抹香事件の舞台になったのがここ。
これがその後の織田家混乱のきっかけになるわけなんですが、実のところ信長を「うつけ者」と嘲笑する人だけじゃなかった。
『信長公記』によれば、僧侶だけで三百人ぐらいあつまったそうなんですが、このなかで筑紫から訪れた客僧が『あれこそ国は持つ人よ』と言ったんだそうです。
 
それにしても、なんで織田信秀がわざわざ信長を後継者として指名したのか、不思議ですねえ。
信秀の葬儀のとき、信長の同母弟・勘十郎(「信行」とも「信勝」とも)の立ち居振る舞いが立派で、その後、柴田勝家らにかつがれて信長に謀反を起こして敗死する話はよく知られていますね。
あと、信長には5歳ぐらい年長の腹ちがいの兄、三郎五郎信広がいます。ちなみにこの織田信広も謀反を計画して未遂に終わった経験があります……信長って、つくづく人望がありませんな。
まあ、そこいらのところはさておいて、万松寺の信秀の墓をおとずれようとすると、地下道をくぐります。この地下道の天井には、織田木瓜の紋のはいった提灯がずらり。
 

 

 
地下道なので真昼でもあかりがともっています。なかなか風情があって、いいもんですよ。

〈了〉

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鈴木 輝一郎

すずき きいちろう

作家

1960年岐阜県生まれ。小説家。歴史小説『浅井長政正伝』『戦国の凰 お市の方』など著書多数。2008年には著作が50冊に達した。

日本推理作家協会・日本文藝家協会・日本冒険作家クラブ会員。


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