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「ラストSHOGUN」

季節と時節でつづる戦国おりおり 第257回

 

 長雨はうっとうしいですが、過ごしやすい季節になってまいりました。なんでも、9月10月というのは月別の死亡率が一番少ないそうで(厚生労働省「人口動態調査」)。とはいえ、そんな時期だからこそお年寄りの方々、油断は禁物。厳冬に入って血圧があがり死のリスクが高まる前の今だからこそ、じっくりと体調を整えておかなければなりませぬ。

 というわけで、今回はその死亡率が低い時期に運悪く死んでしまった人の話。

 今から429年前の慶長2年8月28日(現在の暦で1597年10月9日)、足利義昭死去。室町幕府最後の将軍。かつて織田信長と争った義昭は、享年61歳(数え)だった。大坂で亡くなったというが、細川家の史料『綿考輯録』にはかつて住んだ事のある備後の鞆で卒したとある。

 彼の死因について「丁腫物」と記している記録があるが(『日用集』)、丁とは疔(面疔)の事だろう。つまり、目頭・鼻・口の周囲に出来る顔の腫れ物、吹き出物だ。ほかのできものと違って脳や脊髄に細菌が入り込むリスクが高く、下手をすると死に至る病気で、筆者も子供の頃母から「顔の中心に出来たニキビは潰すな」と良く言われたものだ。

 そこから細菌に侵される危険性を、生活体験的に庶民は知っているのである。この病気は心身のストレスで発症することが多いらしく、義昭の場合は2年前に豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に肥前名護屋まで従軍した疲れもあったのだろう。

 だが、かつて僧籍に入る際に義昭の猶子となった醍醐寺の義演(関白二条晴良の子)は義昭について

「太閤から一万石の知行をもらって、大坂に住んでいた。気の毒な状態だった」

 と書いているぐらいだから、かつての将軍としての誇りと、秀吉の御伽衆に甘んじている現在の自分とのギャップに心理的なストレスも相当たまっていたのではないか。義演は義理の父について

「腫れ物を数日わずらい、亡くなった」

 と記録しているが、これも面疔が発病後数日で死亡するケースがある事に合致する。

 この義演は、義昭危篤を知ると兄の九条兼孝と相談しその養子になっている。なんともつれない対応で、本人が

「最近は将軍職は軽視され、いよいよ有名無実に成り果てた」

 と書いているように、利用価値の無くなった義昭につきあって喪の穢れをかぶるのを嫌ったのだろう。その義演が直後に亡くなった同業・仁和寺の真光院禅海については

「悲しむべし哀しむべし。無念無念」

 などと嘆いているのだから、公家などは本当に身内だけが大事なのだと思う。その点、かつて義昭と袂を分かった細川幽斎などは見舞いにも出向いており、そつの無さは抜群である。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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