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「女性を容姿で判断している」炎上したICT女子プロジェクト問題は、その本質を間違えている

ICT女子プロジェクトの募集要項は男尊女卑か!?

 

 6月9日。総務省による「総務省ICTツイート」というTwitterアカウントが「ICT女子プロジェクトが始動します!」という旨のツイートを書き込んだ。
 リンク先を見ると「ICT女子と企業・団体を結びつけ、女性ならではの切り口に基づく新たなビジネスモデル云々」と書かれていた。
 「ICT」とは、かつて「IT(インフォメーション・テクノロジー)」と呼ばれた概念に「C=コミュニケーション」を足した「インフォメーションアンドコミュニケーションテクノロジー」の略である。
 要はコンピュータなどの情報技術をコミュニケーションに活用していこうという意味で、とりあえず「ICTを活用」と言っておけば、なにかデジタル機器を使って素晴らしいことをしているように思える、便利な言葉である。

 リンク先には「ICT48募集中」として「ICTを用いて活動している女性」を募集していた。これだけを見れば決しておかしな話ではないように思える。
 しかし、募集要項がなぜか「13歳~24歳」という、社会の中でICTを活用して活躍するにはいまいち若すぎる年齢になっていた。さらに応募書類には応募者の身長や体重、全身写真を求める旨が記載されており、ICTに名を借りた、単なる女性アイドル候補だったり、単なる情報技術分野での「花」としての募集なのではないかという憶測がSNSなどで広がり、批判を受けたのである。

 現在、ICT女子プロジェクトのページは削除され、不適切な記載があったと、お詫びが記載されている。
 ICTビジネスを推進する仕事の人達が、ICTを活用できずに大失敗をやらかしたという、この問題。批判の中心は産業振興のために女性を利用しようとする安易さにあった。
 そもそも「女性ならではの切り口」みたいな、女性を集めれば男性社会と違った何かが産まれるんじゃないかとかいう考え方自体が、極めて男性社会的な考え方である。そこに容姿を絡めることがあればなおさら批判が産まれるのは当然のことである。

■必要とされる「若くて美人な女性」と必要とされない人たち

 さて、ここまで読んで、この話は「男尊女卑の話ではないか?」と思う人がいるかもしれない。
 確かに、こうした「男性ばかりの職場に女性という花を加えよう」という考え方というのは、かつては男尊女卑の問題だった。しかし今やそれは女尊男卑の問題なのである。
 そのような変化が起きた理由としては、会社や企業というものが持つ、個人に対する力が、圧倒的に強くなったということがある。高度経済成長で、男性であれば誰にでも仕事があったような、男性労働者が強い時代であれば「会社が女性を花として取り立てる」ということは、男性社会による抑圧であると言うこともできた。それは普通に働きたいのに、女性であるからと仕事とは関係のない、職場に花を活けたり、朝早く来てお茶をを配るという気配りを要求される一方で、仕事そのもの価値を低く見積もられるというものであった。
 しかし不況が続き、男性労働者が弱くなり、結果として専業主婦も弱くなり、男女問わず企業で雇用されることでしか社会性を保つことができない社会になると、例えそれが性的役割の押し付けであったとしても、企業に雇われるだけで遥かにマシであると考えられるようになった。
 今の日本には、企業に利用してもらいたくとも、企業にそっぽを向かれ続ける人が男女問わず大勢いるのだ。貧乏になり社会人として脱落するくらいなら、企業にしがみついたほうがはるかにマシである。
 そうなると、例え性的な役割を押し付けられようとも、それもまた社会や企業に求められるということになる。つまり今回のICT女子の募集要項が暗に示している「情報技術を操れる、若くて美人の女性」は、求められる側。すなわち強者なのである。
 「男尊女卑」にせよ「女尊男卑」にせよ、一方を尊び、一方を卑しめる、その主語は「社会」である。そして同時に社会とは「強い男性による社会」である。すでに不況により男性であっても社会の側に入れない人は多いのだから、もはや男性を一括りに社会の側に置くことはできない。
 そして、強い男性による社会が、男性と女性のどちらをより尊んでいると考えるかで、この2つの言葉のどちらを当てはめるべきかが違ってくる。
 今回尊ばれているのは女性である。だからこの件は「女尊男卑」案件にほかならないのである。

 さて、その上で。
 今の社会が女尊男卑社会であると主張する僕が言いたいことは、決して「社会は男をもっと求めろ」ではない。前回も言ったように、女尊男卑を批判することは、すなわち男女平等を目指すということなのだから。
 ここで言いたいのは、男尊女卑にせよ、女尊男卑にせよ、現状でどちらを尊ぶかを決めるのは社会であり、主にお金の分配を司る企業であるということだ。
 男尊女卑か女尊男卑が問題なのではなく、企業が都合のいい誰かを求めることに対して、個人が性別関係なしに個人の尊厳でもって対応できなくなっていることそのものが問題である。そう言いたいのである。
 もはや男性であれば社会の側という時代ではない。
 しかし残念なことに社会の側、すなわち他人に誇れる仕事と給料を得ていなければ、人にあらずという時代ではある。
 そんな時代に、いまだに前世代的な「男性は社会の側であるはずだ」という価値観を持って、企業による女性利用を、男性の女性利用であるかのように問題をすげ替えて男尊女卑だと叫ぶのは、問題認識が古くて甘いのである。「女尊男卑」という言葉は、あくまでもそうした時代遅れさ加減に対するカウンターなのである。

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赤木 智弘

あかぎ ともひろ

1975年、栃木県出身。フリーライター。著書に『若者を見殺しにする国』(双風舎、朝日文庫)共著に『下流中年』(SB新書)。Webサイト「深夜のシマネコ」http://t-job.vis.ne.jp/


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