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新選組の生き残り中島登とは?

新選組の生き残りが描いた真実 第1回

新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

「やくざや遊人とも交って」諜報活動した男

中島登(なかじまのぼり)は天保9年(1838)2月2日に多摩の陣馬街道字小田野(じんばかいどうあざおだの/現在の東京都八王子市)で生まれた。父は中島又吉、母はいち。父は千人同心(せんにんどうしん)だったので登も幼時から武芸を志し、天然理心流を学んだ。千人同心は「八王子千人隊」ともいわれ、徳川家康が創設し、大久保長安が管理した多摩の屯田兵である。江戸城が攻められ落城の危機に陥った時は、将軍は半蔵門から脱し、一路甲州街道を甲州城へ向かう。追撃する敵を一旦、八王子で食い止めるのが千人同心の責務だった。しかしその責務は果たされることなく幕末に至った。

登の血を湧かせたのは、同郷の近藤勇・土方歳三・沖田総司たち天然理心流一門が結成した新選組の京都における活躍ぶりだ。「新選組に入隊したい」という気持ちは日増しにつのった。

近藤とは多少の由縁がある。池田屋事件で名をあげた新選組は、兵力補強のために局長の近藤勇が自ら関東に募兵にやってきた。登は入隊を申し出た。近藤はすぐには許さず武蔵・相模・甲斐3カ国の地理、民情の探索も命じた。元治元年(1864)秋のことだ。近藤が入隊を許さなかったのは能力査定によるのではなく、登が家を継ぐ必要のある長男だったからだ。

登が正式に入隊したのは慶応3年(1867)晩秋のころだといわれる。本人の記録に残る「五カ年」という年月は、元治元年から慶応3年と考えればつじつまは合う。新選組は存立するために常に諜報活動を重んじた。登にはそういう才能があったのだろうか。自身後年「やくざや遊人とも交って」と語っているから、この仕事は中途半端なものではない。正規の隊士でなくても、登自身はこの仕事を「れっきとした隊士」の意識と誇りをもって実行したのだ。

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童門 冬二

どうもん ふゆじ

どうもん・ふゆじ/1927年、東京都生まれ。東京都立大学事務長、東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任し、1979年から作家活動に専念。著書に『韓非子に学ぶ ホンネで生きる知恵』(実業之日本社)、『小説 新撰組』『小説 上杉鷹山』(ともに集英社)、『新撰組 近藤勇』(学陽書房)など多数。


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