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平氏、源氏滅亡の二の舞はゴメンだ!

毛利元就の遺言状 第8回

毛利元就肖像画(東京大学史料編纂所所蔵模写)

 

謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。

 

「われ、天下を競望(けいぼう)せず」と元就(もとなり)はいった。この真意を推し量る記述が『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』にある。

元就は平家の滅亡、源氏3代での終焉、北条氏一族の破滅に思いをはせ、天下を取っても数代のうちに類族枝葉までも滅びてしまう先例を踏まえ、

「毛利はこの轍(てつ)を踏まず、ただ数カ国を保って子孫永代の計略を立てて、先祖の祭祀(さいし)を絶やしてはならぬ」

と息子たちに説いたとある。

だが、豊臣秀吉の天下になると、大藩毛利を放っておくわけがなく、豊臣政権に積極的に参画することになる。そして秀吉の死後、徳川家康が覇権を担うと、輝元は天下権謀の渦に巻き込まれた。

これを予知していた隆景は、慶長2年(1597)に65歳で死去する際、輝元に

「天下は乱れるといえども、輝元は兵革の事に口を出してはならない。ただ領国を堅く守って失わない策を練るようにせよ」

と遺言した。

元春すでになく、隆景の空いた穴は大きく、輝元は「隆景が死んで、毛利が軽視されている」と嘆き、元春の子で、資質謹厳・思慮周密の知謀・広家(注)を頼った。(続く)

 

注/吉川広家(きっかわ ひろいえ)。永禄4年(1561)~寛永2年(1625)。関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍主将にまつり上げられるなか、徳川方へ内通し毛利参戦を阻止した。合戦後、毛利氏から岩国3万石を与えられる。

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。

 

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