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地震が招いた? 北条滅亡の真実

季節と時節でつづる戦国おりおり 第229回

忌まわしい“3.11”から5年。万感の思いをこめて「生者死者の心の平安」と「復興」を祈ります。

 今回のお題も地震がらみ。今から427年前の天正17年2月5日(現在の暦で1589年3月21日)、駿河・遠江の二ヶ国で大地震発生。

 現在の静岡県全域でこのとき起こった地震についてはあまり詳細な記録はなく、徳川う家康の家臣・松平家忠が

「雨降。申刻(午後4時前後)に大地震候、駿河川東興国寺、長久保、沼津城の塀、二階門迄損じ候」

 とリアルタイムで日記に書き残している。

(この地震についてはかつて一度記事にした事があったかも知れない……)

 この地震、『武徳編年集成』に「東海道大地震」とある通り、揺れは東海道全域に及んだようで、後年の『家忠日記追加』『武徳大成記』に「駿河遠江で特に激しく揺れ、家屋が多く倒壊した」とある通り、東海道の中で被害が集中したのが駿河・遠江二ヶ国だったというわけだ。

 家忠の「興国寺城・長久保城・沼津城の塀や二階建ての門が損壊した」という文言が本当なら、4年前の天正大地震ほどでは無いとしても、かなり大規模な被害を一円にもたらしたと推定できる。

 ここで問題になるのが、天正大地震のとき崩壊した近江長浜城や飛騨帰雲城など、豊臣秀吉支配圏での被害が甚大で、これによって秀吉は徳川家康征伐の軍事作戦の中止を余儀なくされ、外交による政権への家康組み入れに切り替えざるを得なかったというロジック。これを転用すれば、今回の駿河・遠江大地震も日本史に影響を与えたはずだ。

 そこで前後の出来事を見てみると、やはりあった。それがこの年11月の上野国名胡桃城事件だ。

 NHK大河「真田丸」はまだ天正壬午の乱あたりで、名胡桃城の一件はだいぶ先の話となるが、大地震の5ヶ月後の7月に真田昌幸の沼田城が秀吉の命によって北条氏に割譲され、さらにそれから2ヶ月、9月に沼田城の隣の名胡桃城が北条氏の家臣・猪俣邦直に奪われたのだ。名胡桃城はまだ昌幸のものだったのだが、上野国の完全支配をもくろむ北条氏が策略をめぐらせたという。

 沼田城割譲前後、秀吉は北条氏に対し臣従を求め、上洛を要求していた。そのエサとして与えられたのが沼田城だ。だが、北条氏はそれでも満足せず名胡桃城にも手を出した。

 北条氏がなぜそこまで厚かましく振る舞えたか。その背景に、この駿河・遠江大地震があったのではないだろうか。

 北条氏を征伐する場合、東海道筋は北条氏の本拠・小田原城攻撃の正面となるだけでなく、物資補給の大動脈ともなる。その東海道、特に先鋒を担当する家康の領国が甚大な被害を受けている以上、当分の間自分たちが攻められる事はない、と北条氏は判断したのだ。

 天正大地震のあと、家康がのらりくらりと秀吉の要求を先延ばしにして豊臣政権内に外様大名として最大限の地位を確保した事を、北条氏も参考にしたのだろう。

 だが、北条氏は拙速に最大の効果を得ようとして、名胡桃城支配を既成事実化しておこうと欲をかき、軍事行動を起こしてしまった。これは秀吉の「惣無事」令(私戦停止命令)に違反する重大なポカで、一切の軍事行動をとらなかった家康とは違う一点だった。

 結果、秀吉は翌天正18年、北条征伐を実行する。北条氏は駿河・遠江大地震を大チャンスととらえ、そして滅亡に追い込まれたのだ。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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