雑誌『歴史人』でも何度か、「関ヶ原合戦」について、監修・執筆を担当した。誌面では、語り尽くせない部分もあったので、「BEST TIMES」を利用し、“石田三成と関ヶ原”について語ってみたい。

 石田三成は、近江石田村で生まれた。近江であっても、美濃の関ヶ原に近く、関ヶ原一帯は浅井領の時期もあった。

 今でも、石田村の三成生誕の地から関ヶ原までは車で15分ほどの距離に過ぎず、関ヶ原は少年時代の三成のテリトリーに含まれていた。

生誕地に建立された石田三成銅像

「豊臣への忠義を尽くし散った三成は、桜の花のような生涯を送った」

 というような人情論による歴史観に対しては複雑な思いを抱く。

 三成は、決戦を前にして、東軍の関ヶ原突破に備え、盟友の大谷吉継に対し、関ヶ原への移動を要請。

 大谷隊は、関ヶ原に着陣すると、臨時陣地の築造を開始する。

大谷隊が築いた臨時陣地の痕跡

 ただの土塁だけでは理解不能なためCG処理で柵を追加

 このような技法はアイコラによって習得―自爆

 三成は、岐阜城陥落後、激動を続ける戦況のなかで、関ヶ原の地を決戦の地と定める思惑を抱き始めた。

 三成は家康により、大垣城から誘き出されたとされるが、三成にしてみれば、自身のホームグランドである関ヶ原へ家康を誘き寄せたという意識で決戦に臨んだ。

 三河出身の家康が関ヶ原には土地勘がないのに対し、豊臣恩顧系の武将たちは、関ヶ原になじみがあった。

 なかでも、賤ヶ岳七本槍と称された福島正則、加藤嘉明、脇坂安治は、大垣から木之元への大返しの時、関ヶ原を通過しており、周辺の地形を体感していた。

 また、三成も大返しのときには、地元出身の強さを発揮し、作戦成功を背後から支えている。

福島正則陣所跡

 福島正則は関ヶ原合戦で主体的役割を果たす。

 石碑は思いっきり下からあおって撮影。

 東軍のなかには、関ヶ原の領主である竹中重門をはじめ、関ヶ原の土地勘がある武将も含まれており、家康は、彼らの意見を取り入れながら、作戦を策定したともいえる。

 というよりも、福島たちに引きずられる形で関ヶ原での決戦を選択したとみなすべきなのだ。