織田信長と武田勝頼との運命の一戦は、長篠合戦と称される。一方、近年では決戦が行われたのが長篠城ではなく、いわゆる設楽原だったことから、わざわざ「長篠・設楽原合戦」と呼ぶ研究者も少なくない。

 だが、この戦いが長篠合戦と称されたのは、長篠城を巡る攻防戦が主軸となったからであり、戦いの本質を読み解くうえで、わざわざ言い換える必要がない。

 また、設楽という地名は、三河東北部の郡名であり、特定のポイントを意味しない。

『信長公記』によると、決戦の地は「有海原」と記述され、両雄の決戦は有海原を舞台に繰り広げられた。

 そのためもあり、長篠合戦を有海原合戦ならまだしも、設楽原合戦と言い換えることは無意味なことだと思う。

 合戦の舞台となった長篠城は、家康は、武田勢の来援を前にして奥平信昌を長篠城の城将に任命。

 長女・亀姫との婚姻を約束することにより、信昌からの忠誠心を確実なものとするとともに、開城交渉に応じることなく、城を死守することを厳命した。

 城の守備を任された奥平信昌は、武田勢の来襲に備え、防御を強化。本丸北側の空堀と土塁の規模は大きく、今日に伝えられる姿から、武田勢の猛攻に耐えた堅城であることが読み取れる。

長篠城の壮大な空堀と土塁。

 長篠城は、土豪クラスの城ではなく、臨戦態勢のなかで極限にまで強化された戦国城郭だということがこの巨大な空堀を目にすると理解できる。

 また現在に伝えられる遺構だけではなく、発掘調査により、戦国屈指の堅城としての姿が解明されつつある。

武田軍が布陣した鳶ノ巣砦から長篠城を望む。

 戦国城郭では、鉄砲の有効射程圏外であれば、たとえ敵が高地に布陣したとしても、籠城兵の抵抗は継続されたのだ。