「東大理Ⅲより難しい」―
“慶應義塾幼稚舎”の入試を評するときによく使われる表現だ。ここでいう「理Ⅲ」とは東京大学理科Ⅲ類。全国に82ある医学部の中でも、断トツの偏差値を誇り、国内の大学入試で最難関とされる東大医学部である。彼らのキャラクターのせいもあって、言い方は悪いが、「偏差値オタク」との呼称が理Ⅲの代名詞になっているほどだ。そんな彼らがもし若返って、“慶應義塾幼稚舎”の入試に挑戦できたとしても、まず合格できないだろう。
 日本のエスタブリッシュメント層を多く輩出してきた“慶應”を体現し維持しているのは、まさしく幼稚舎であり、多くの者が抱くそのブランド力への憧れが人気を不動のものとしているのである。『慶應幼稚舎の秘密』では、出来る限り多くの幼稚舎出身者にインタビューを行い、知られざる同校の秘密を浮かび上がらせていく。その一部より、興味深い部分を掲載したい。
 

 幼稚舎の教育システムの最大の特徴は「6年間担任持ち上がり制」だろう。6年間、クラス替えがなく、担任教諭も替わらないという制度だ。1897年(明治30年)、森常樹が第4代舎長に就任すると導入され、以来、現在までずっと続いている。

 森常樹という人物は熊本の士族の家に生まれ、西南戦争に官軍側として参加したのち、東京に遊学。慶應義塾に入学し、首席で卒業した。福澤諭吉の次男・捨次郎と同級だったことから、福澤家にもたびたび出入り。福澤の信頼も厚く、乞われて幼稚舎で教鞭をとるようになった。

 この森がなぜ、6年間担任持ち上がり制を導入しようとしたのかは定かではないが、ちょうどこの前後に、慶應義塾の学事改革が進められていて、それが影響したのではないかと推察される。それまで、幼稚舎は慶應義塾の初等科(小学校)と明確に位置づけられていたわけではなく、卒業しても、必ずしも一貫校のように普通部(中学・高校)、大学部と上がっていくわけではなかった。

 そもそも、生徒の年齢もバラバラだった。入学試験もなかったので、5歳で入ってくる生徒もいれば、10代になってから入ってくる生徒も少なくなかった。中には、18歳で入学したという記録も残っている。

 したがって、クラスもはっきりしておらず、それぞれの教科によって専任の教員がおり、出席する生徒も違っていた。たとえば英語の出来が悪ければ、英語だけ下のクラスに入るとか、歴史は得意だから上のクラスといった具合に、学年の感覚もあいまいだったのだ。
 また、4年制の尋常小学校を卒業してから幼稚舎に入ってくるケースも多く、修了までの年数もまちまちだった。

 1898年の学事改革で、幼稚舎は正式に慶應義塾の初等科という位置づけになり、6年制になるのだが、それに合わせる形で6年間担任持ち上がり制が導入されたことになる。
 つまり、学事改革によって学年ごとの生徒の年齢がほぼ横並びになり、各教科ごとに教員が異なる専科制度は維持しつつ、その一方で各クラスを見守る担任の重要性が増し、6年間担任持ち上がりという制度が浮上したのである。

 幼稚舎の歴史にくわしいOBは次のように話す。
「それまでの能力別クラス編成から、年齢によるクラス編成に変わったことにより、学力がまちまちの生徒たちが同じクラスに入ることになった。しかも、小学生の頃は成長の度合いにも子どもによって、かなり差がある。担任はそうしたものを見きわめながら生徒たちと接しなければならない。だとすれば、1年ごとに担任がころころ替わるより、生徒たち一人ひとりをしっかり把握している教員が6年間ずっと、見守る形のほうがうまくいくと考えたのです」

(『慶應幼稚舎の秘密』(著/田中幾太郎)より引用)