■中大兄皇子の本心が朝廷守旧派だった理由

写真を拡大 写真 孝徳天皇/国立国会図書館蔵

 たとえば六六三年、滅亡しかけていた百済を救援するために遠征軍を派遣した白村江の戦いがいい例だ。当時、唐と敵対関係にあった百済に援軍を送ることは、すなわち唐との国交断絶を意味していた。律令制度が未完成であったこの時期、律令制度の本家本元であった唐とのかかわりを断つことは、律令制度導入政策が頓挫したことを意味する。

 したがって、中大兄皇子の本心は朝廷守旧派としての旧体制維持であり、律令制度の確立をめざした聖徳太子を否定する立場にいたと断定してもよい。 

  要するに、太子の遺志を引き継いだのは中大兄皇子ではなく、反対に蘇我入鹿や孝徳天皇であり、だからこそ中大兄皇子の手によって入鹿は殺され、孝徳は捨てられたということになるのだ。 

 乙巳の変のクーデターが、朝廷守旧派・中大兄皇子による改革派・入鹿の暗殺だとすれば、ここで改めて大化改新の本質を見直す必要が出てくる。

「日本書紀』の示した乙巳の変の図式――すなわち、聖徳太子の夢をくじいた蘇我氏を滅亡に追いやることで、中大兄皇子は太子の遺志を引き継いだという構図は、ここで見事に崩壊してしまうのである。

 そこで、仮定した「聖徳太子と蘇我入鹿は、蘇我一族すべてを抹殺するために仕組まれた朝廷の陰謀によって滅亡に追いこまれた」という推論に立ち返って考えてみよう。

 大化改新後、皇位を継承したのは孝徳天皇だった。この孝徳天皇は、蘇我氏に近い存在だった疑いがある。その根拠は、皇極二年(六四三)の山背大兄王襲撃事件に際し、孝徳が入鹿の軍に加わっていたらしいこと、そして、蘇我系の皇族や家族が密集して眠る磯長谷に、孝徳の墓があるからである。

 そして、孝徳天皇と蘇我を結びつける最大の証拠は、難波宮である。

『日本書記』によれば、孝徳天皇が難波宮に遷都したとき、老人たちが「そういえば、春から夏にかけて、ネズミが飛鳥から難波に向かっていたのは、今思えば遷都の前兆だったのだ」と述べるくだりがある。

 春から夏というのは、入鹿暗殺の直前のことで、この一節は、難波遷都はすでに蘇我入鹿の時代に画定済みだったことを示している。難波宮は「律令制度導入の第一歩 だったのだから、孝徳天皇は「蘇我の遺志」を継承したことになる。

 孝徳天皇は入鹿暗殺後、すぐ即位し、律令制度の整備に奔走した。その一方で、入鹿を殺した中大兄皇子はどうかというと、孝徳の足をひっぱるような行動に出ている。 つまり、律令制度の導入をめざしていたのは、聖徳太子蘇我入鹿――孝徳天皇ラインであり、中大兄皇子はこのラインをつぶそうとしたのである。

(次回に続く)

『聖徳太子は誰に殺された?』(ワニ文庫)より