早くも今回の目的を達したところで、学校の敷地の外に少しだけ残っている本丸の曲輪跡を拝見しておきましょう。

 

 学校の西側に未造成の曲輪部分があるのですが、その西端を写したのがこの写真です。足元から続く平坦な地面が、最後に盛り上がっている様子は写真ではわかりにくいかも知れません。私の首元ぐらいまではありますから、ざっと1m50cmほどの高さです。南側はさらに高く盛り上がっており、ここが西南角の櫓台跡推定地とのこと。

 古絵図ではその方向から麓に降りる搦手道?が描かれていますから、そこからの敵の侵入を防ぐため一段高いところに櫓をこしらえていたのかも知れません。

 また、単に一番興福寺など奈良の中心部に近い(西南角は南に張り出している)ところに櫓を造れば、その見晴らしはかなり良かった筈です。この櫓台というのは四層の櫓(のちの天守閣のさきがけ)だった可能性もありますが、それならふもとの奈良の人々に対する権威の演出としても抜群の効果が期待できます。

 今でも現地から二月堂や興福寺の塔などは一望のもとにできますから、支配のための仕掛けとしては最高ですね。

 当時、多聞山城を実際に目撃した宣教師・フロイスは「「城壁と堡塁のところは、(中略)いとも白く輝いて(中略)もっとも美しく快い瓦で掩われ、黒色で」と証言しています。同じくアルメイダは城の御殿の壁は金塗りだと記録しました。白い壁に黒い瓦、金の壁の、輝く美しさを持った城。それがこの多聞山にあった久秀の城だったのです。

 元亀3年(1572)に久秀は織田信長から離反し、翌天正元年(1573)1月に降伏して多聞山城を接収されますが、その明くる年の天正2年(1574)3月28日、この城は東大寺正倉院の御物・「蘭奢侍」の開封と截(き)り取りの場所となります。「御成の間の舞台で(信長の)お目にかけた」と『信長公記』にありますから、この頃の多聞山城には信長来訪用の広間と、それに付随した能舞台があったことが推定できます。

 このイベントからさらに2年、天正4年(1576)には城は廃城となり、主殿は信長が京に造営する二条新屋敷(のちの二条新御所)に移築されています(『言継卿記』)。