■ユダヤ商法見習い時代

 G・H・Qの通訳になった当時、私は東京大学法学部の学生だった。父はすでになく、母ひとりを大阪へ残していたが、私は食うための生活費と学資をアルバイトで稼がなければならなかった。敗戦によって、それまでの、哲学、道徳、法律などの一切の価値体系は混乱し、破壊され、生きていくための精神的な支柱は何もなかった。

 その時、私に残っていたのは、大阪人独特の「負けてたまるか」という根性だけだった。戦争には負けたかもしれないが、社会の混乱や空腹には負けたくなかった。占領軍にすら、負けたくなかった。

「どうせアルバイトをやるなら、敵地に乗り込んでやれ」

 通訳を始めた時は、そんな気持だった。外交官を志したことがあるだけに、八方破れの乱暴な英語だったが、なんとか英語をあやつれる自信はあった。

 しかも、ほかの学生アルバイトにくらべ、通訳の報酬は飛び抜けてよかった。1カ月、3、400円のアルバイトが常識だった頃、通訳は1カ月で1万円になった。報酬は少ないよりも多い方がありがたいことはいうまでもない。

 敗戦国の人間、黄色い人種──そんな差別をいやというほど味わいながら、私は通訳の仕事を始めた。

 生まれながらに大阪弁という言葉のために差別されなければならなかった大阪の人間である私が、「ユダヤ人」だというだけで身に覚えのない差別をされながらも、金を持ってる奴が勝ちさ、といわんばかりに、黙々と同僚のGIを金で征服していく、生命力の強いユダヤ人にひかれていった裏には、こうしたいくつもの要因が、複雑にからみ合っていたのである。

 ユダヤ商人の持つたくましさは、敗戦ですべての精神的なよりどころを叩きつぶされていた私の目に、これから生き抜いていくための方向を暗示しているようだった。

『ユダヤの商法』より構成〉