■エル・アラメインを巡る大会戦は枢軸軍の敗北で終幕

写真を拡大 第2次エル・アラメイン戦でイギリス軍の捕虜となった枢軸軍将兵。彼我双方とも祖国を遠く離れた異郷の地での戦いであり、戦場の自然環境も厳しかったため、捕虜に対する虐待行為は他の戦域に比べて少なかった。また、時に部隊からはぐれた少人数の将兵が、枢軸軍、連合軍の見境なく現地人の盗賊集団などに虐殺されるケースも生じている。

 アラム・ハルファの戦いで蒙った損害の補充は、イギリス軍では着々と進んだが、枢軸軍では捗らなかった。両者のこの差は、陸上の補給源までの距離の遠近だけでなく、マルタ島の問題も含めた「地中海を渡る」枢軸軍の長い補給線が、広域にわたって常に連合軍に脅かされていたことも大きく影響していた。

 当然ながらロンメルはこの実態を理解しており、おそらく先に発起されることになるイギリス軍の攻勢を阻止するため、ハンス・ヘッカー工兵大佐の手になる「悪魔の花園」と呼ばれた強力な地雷原を含む、各種防禦陣地を構築して待ち構えた。しかし長年の苛酷な戦場生活のせいで、この頃のロンメルの体調は最悪の状態にあり、9月23日、とうとう病気療養のためドイツに帰国。それに際し、代理として着任したゲオルグ・シュトゥンメ上級大将に指揮権を移譲した。

 ところがイギリス軍は、最高機密情報ウルトラによってロンメルの帰国を知るや急ぎ攻勢を準備し、10月23日夜、攻勢作戦「ライトフット」を発動。かくて第2次エル・アラメイン戦が始まった。押してくるイギリス軍に対し、防禦陣地に収まったドイツ軍は果敢な防戦を繰り広げた。そしてロンメルの思惑通り、「悪魔の花園」がイギリス軍の戦車と歩兵に大きな損害を強いた。

 この激戦が始まった直後の24日朝、前線に向かう途中のシュトゥンメの乗車が砲撃の後に機銃掃射を受けて副官が戦死。そのショックで彼も心臓麻痺を起こして戦病死してしまった。そのため、アフリカ軍団長ヴィルヘルム・フォン・トーマ大将が臨時にアフリカ装甲軍の指揮を執った。著しい戦況の悪化で、やむを得ずヒトラーはロンメルに北アフリカへの帰任を要請。10月26日、再び北アフリカの土を踏んだ彼は、この時点で大損害を蒙っていたアフリカ装甲軍を再集結させ、組織的な防戦を戦わせた。

 ドイツ軍の頑強な防戦に、モントゴメリーは状況を打破する思い切った手段として11月1日深夜、戦果拡大のための「スーパーチャージ」作戦を発動した。この作戦の目的は、エル・アラメイン西方に集結している枢軸軍部隊を地中海沿岸側と内陸側から包囲するとともに、両者の中間点にあるエル・アカキール高地を奪取するというものだ。

 イギリス軍の新たな攻勢を知ったロンメルは翌2日、満身創痍のアフリカ装甲軍に対して総力での反撃を命じた。反撃はエル・アカキール高地に向けられ、イギリス軍との間で大戦車戦が展開された。

 熟練の戦車兵が乗るなけなしのIII号戦車やIV号戦車が、怒涛のごとく押し寄せるイギリス軍のM4シャーマンやクルセーダーを次々と撃破。だが上空を舞うイギリス軍のホーカー・ハリケーン地上襲撃型の40mm機関砲の掃射で、枢軸軍の戦車も片端から炎上する・・・。

この激戦で双方ともに大損害を蒙ったが、イギリス軍は急速な補充によって戦力を速やかに回復させた。しかし補給のない枢軸軍は損害の回復が図れず、以降の組織的反撃は不可能となってしまった。

 もはやこれまでである。ロンメルはヒトラーに撤退の許可を求めたが、その回答は否であった。だが彼は、事ここに至っては一兵でも多くを助けることが、総司令官たる自らに課せられた責務と考えた。11月4日、彼はヒトラーの厳命に背き、独断で全軍に撤退を下令。この日はまた、絶望的な戦況を悲観したアフリカ軍団長トーマが独断でイギリス軍に降伏した日でもあった。

 こうして、エル・アラメインを巡る大会戦は枢軸軍の敗北で終幕を見た。しかもこの負け戦は、枢軸軍を再起不能にまで弱体化させた。そのため、以降の北アフリカにおいて、枢軸軍による全面大攻勢が実施されることはついぞなかった。