城内の案内板は、見所を撮影し忘れないため、ちゃんと目を通すべきだと考える。だが、だいたいは撮影してデータ化しておき、必要になったら読めばよいという思い、ほんの数秒で通過することが圧倒的に多い。

 秋田市の久保田城では、珍しく案内板に目を通していたら、「おやっ」もしくは「ほおー」という情報が示されていた。

 以下、案内板を抜粋しながら引用。

「千秋公園は久保田城跡を明治期の造園家長岡安平の設計によって整備した近代公園である。公園整備は、本丸御殿の御池や城内の土塁・通路などの遺構を活かして行われ、明治30年に近代的な城跡公園として千秋公園が完成した。長岡は、その後も城跡公園などの設計を行ったことから、近代公園の先駆者と呼ばれている。城跡を公園化する事業は全国初の試みだった」

写真を拡大 久保田城御三階櫓。天守状の復興建築。鉄筋コンクリート城郭の最終世代。

 スマホで明治の造園家・長岡安平を検索すると、久保田城のほかにも盛岡城、高知城などの公園化に際して、設計を担当していることがわかった。

写真を拡大 久保田城長坂門枡形土塁。土塁の下部は低い腰巻石垣が使用される。このカットからは、公園化しても城跡の構造を残すという長岡の配慮が感じ取れる。

 大村藩出身の長岡は、同郷の楠本正隆が東京府知事に就任すると、その推挙により、土木技術系官僚として登用され、都市のインフラ整備や公園の造成の分野で頭角を表した。

 帰宅後、自宅の書庫から高岡城の図録を見つけ、中身をチェックしてみると、公園化にあたっての設計者としての功績が1ページ分割り振られていた。 

写真を拡大 高岡城水堀。高岡城は、城を取り巻く水堀が完全な形で残されており、長岡の偉業の代表例だといえよう。

「城跡を公園化する事業」は、現代に引き継がれている。だが、現在では、城跡が公園化されると、それが遺構の破壊を意味することも例外ではない。

 高度経済成長期には、発掘調査もせず、城郭が公園として造成されたのだが、近ごろは、発掘というお墨付きを手にしてから、「公園化」という美名のもとに城郭が破壊されている。

 本来、城は敵の侵入を防ぐためのものであり、市民が親しむための公園とは用途が異なる。

 長岡は、二律背反に苦心しながら、最適の答えを求めようとした。のだろう。現代の行政は、長岡の精神を再検証すべきだと思う。