情報あふれる現代こそ、「プロパガンダ」の技術が必要だ。戦国時代の日本人に「騙されないコツ」「生き残るコツ」を学べ。『プロパガンダで読み解く日本の真実』を上梓した倉山満氏が解説する。家康のやり方とは。

■関ヶ原遅刻演出の真意

 本能寺の変を境に、織田家の跡目争いが始まります。2男の信雄と3男の信孝というバカ息子同士が争い、まずは信孝が消され、信雄は家康を頼って秀吉に対抗しようとしたけれども、あっさり、秀吉の軍門に下ります。

 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いは秀吉VS.信雄・家康の戦いでした。家康は直接決戦で秀吉に勝ったと宣伝しまくりました。

 でも、家康が勝ったのは、たった1日だけの話です。緒戦では犬山城を秀吉に落とされ、小牧・長久手で睨み合って、1回だけ野戦で勝ったのを、さもすべてであるかの如く言いふらしただけです。翌日にはまた睨み合いに戻り、最後には家康が降伏しているのが小牧・長久手の戦いです。

 小牧・長久手の戦いは、秀吉対家康の「天下人同士の唯一の直接対決」として江戸期には特筆大書されますが、それには理由があります。関ケ原の合戦を威張り散らせないからです。

 秀吉が生きていた時、家康は臣従を徹底します。秀吉が死んだ瞬間、もはや日本に怖いものは無しと、牙をむき出しにします。家康は婚姻や手紙攻勢で、大名を味方につけます。要するに買収していっているわけです。

 これに異を唱えたのが豊臣の忠臣である石田三成でした。2人の対立は、1600年の関ケ原の戦いへと至ります。

 決戦は一日で終わりました。実は小早川秀秋は最初から裏切っていた。日和見の秀秋に業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけて脅した、いわゆる問鉄砲はなかった。朝から始まって12時には終わっていた(通説より2時間早い)。等々、関ケ原の戦いに関しては興味深い新説が次々と出ています。ご興味がある方は、白峰旬『新解釈 関ケ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)をどうぞ。

 それはともかく、関ケ原の戦いは予想外に早く終わり、徳川の主力は決戦に間に合いませんでした。家康の息子の秀忠が遅刻したために、家康は三河武士団ではなく外様の連中を率いて戦ったのです。これが大問題で、恩賞について外様の連中に気を使わなければならなくなり、後の徳川幕府の形態を決めたのです。

 関ヶ原の合戦は、日本中の誰一人として1日で終わると思っていませんでした。秀忠の遅刻の原因は、真田氏が籠る上田城を攻めあぐねたからです。徳川は過去にも上田城で大敗を喫しており、景気づけに落として恥も雪いでしまおうと考えていたら返り討ちにあった、と信じられてきました。

 ところが、実際は家康が「信濃の真田を落とせるなら落としてこい」と言ったのが発端なのです。つまり、秀忠は命令を忠実に守りましたが、敵の抵抗が手ごわいので無理攻めをせずに関ケ原へ急いだら、戦いが終わっていたということです。むしろ、どうして家康の方が待っていないのか。家康の方にこそ伝達ミスの責任があります。

 しかし、三河武士団としては「神君家康」に傷がつくとまずいので、秀忠が責任をかぶらされました。「無能な秀忠ですら将軍職に就けるシステムをつくった神君は偉い」ということにもなりました。これもまたプロパガンダです。秀忠もそれは当然承知だったでしょう。

 逆に、無能として存在している方が、秀忠自身にとっても都合がいいのです。徳川家全体にとって、家康と秀忠、どっちが無能なのかといえば、秀忠を無能にしておく方がよく、そこがまさにポイントなわけです。

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