情報あふれる現代こそ、「プロパガンダ」の技術が必要だ。戦国時代の日本人に「騙されないコツ」「生き残るコツ」を学べ。『プロパガンダで読み解く日本の真実』を上梓した倉山満氏が解説する。「姉川の戦い」はなぜ誤解されているのか?

■教科書でも必出の「姉川の戦い」

 家康が信長を手伝った戦といえば、姉川の戦いがあがります。通説では姉川は、信長の畿内での覇権をほぼ決めることになった戦として特筆大書されます。教科書でも必出で、「元亀元(1570)年 姉川の戦い  織田信長・徳川家康の連合軍が朝倉義景・浅井長政の連合軍を破る」と丸暗記させられます。もっとも、朝倉義景は姉川に来ていませんが。

 19世紀に編纂された徳川の公式歴史書『徳川実紀』では、姉川、三方原(1572年)、長篠(1575年)を「東照神君(家康)の三大合戦」と位置づけています。

 どうしてこれらを強調しなければいけないかということ自体がプロパガンダです。

 通説によると、姉川の戦いで信長は13段構えの陣を敷いて浅井勢を迎え撃ちます。浅井は13段構えの11段目までは突破したけれども、援軍にきた家康が朝倉を蹴散らしたので形勢は一気に逆転、織田・徳川連合軍が大勝した、となっています。さて、ここにはどんな噓が仕込まれているでしょうか。

 第1の噓。通説として伝わる13段構えの布陣が可能な広い場所は姉川にはありません。『センゴク』(週刊ヤングマガジン2004〜07年連載 講談社)で有名な漫画家・宮下英樹氏が実際に姉川に行って確認してきました。400年以上、誰も検証してこなかったわけです。研究者は知っているのでしょうか。

 第2の噓。最初、「おまえは友軍なんだから後ろでみていていい」と家康は言われたけれども、「いや、それでは援軍にきた意味がない」と信長に食い下がり、それではというので、あえて、数の少ない家康軍が大軍の朝倉軍に向かったものの、一方で信長は、少数の浅井軍にあやうく殺されそうになった、ということになっています。この話の出典は、徳川側の史料『三河物語』でしょう。『三河物語』で家康は、《三十歳にもならないものが、援軍にやってきて一番隊を命じられず、二番隊だったとのちのちまでいわれるのは、いやです。ぜひ一番隊をお命じください。そうではないなら、明日の合戦には、参戦しません》(前掲『現代語訳 三河物語』)とまで言っています。信長は《そんなに思っていてくれるのはありがたいことだ。それなら一番隊をたのもう》などと答えています。

 この話が本当だとすれば、どうして信長は不利に陥ったのでしょうか。要するに、桶狭間の戦いと同じことで、浅井が奇襲をかけて織田に突っ込んだという説に分があるようです。浅井の奇襲で信長は右往左往するものの、なまじっか数が多いので助かっていたところを家康が乱戦に持ち込んで勝った、というのが実際ではなかったかと考えられています。

「大勝した」というのも無理があります。だいたい、姉川の戦いに、当主の朝倉義景は来ていません。来ていないこと自体は義景の事情というものでしょうが、姉川の3ヶ月後には、浅井・朝倉は普通に軍事行動しています。延暦寺と連合して、摂津に攻め込んだ織田本隊を襲っていたりするのです。

 それどころか、第1次信長包囲網を敷かれた信長は、『三河物語』によれば最後には《わずか一万余以下の兵ではとてもたち向かえないと、和議を申しこみ「天下は朝倉(義景)殿がおとりください。わたしは二度とそんなことは望みません」と起請文をお書きになって和睦を結んで岐阜へ引きあげ》ています(前掲『現代語訳 三河物語』)。出典が出典なので本当かどうかはわかりませんが、『大間違いの織田信長』でも書いた通り、信長はなにしろ土下座が上手い人なので、もし本当にこれをやったのであればたいしたものです。