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大名・久喜氏の面影を追う①三田界隈(1)心月院その壱

季節と時節でつづる戦国おりおり第371回

 九鬼氏は元々志摩水軍の一員で、九鬼嘉隆のとき合戦に敗れ志摩を追われたあと織田信長に拾われ、その援助で志摩を領有(異説あり)。

 天正2年(1574)の長島一向一揆攻めで水軍の長として「あたけ舟」(安宅船=大型の軍船)に乗って出陣し、天正6年(1578)の第二次木津川口の戦いでは有名な鉄甲船(鉄板で装甲した船)を建造し、雑賀水軍や毛利の村上水軍を蹴散らしました。

 嘉隆は朝鮮の陣でも活躍しましたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、戦後自害。息子の守隆は徳川家康に付いたため、九鬼氏は大名として生き残り、跡を継いだ久隆の代で摂津国三田に国替えとなりました(これとは別に久隆の兄の隆季が丹波国綾部に分家)。

 というわけで、九鬼氏は以降幕末まで三田の殿様として代々続いています。今回は、その三田をウロウロしに行きましょう。車に乗り込み、中国自動車道を進んで神戸三田ICを降り、東へ進むと…丘陵の上に心月院さんがあります。

 

 迎えてくれたこの山門は、豊臣秀吉がお気に入りの有馬温泉に建てた御殿から移築したものだそうで、そう聞くと、なんだか湯に浸かった太閤さんの鼻歌が聞こえてきそうな気がします。

 

 境内に入り、本堂正面の唐門形式の総門。

 

 見上げると、唐破風(屋根)の中央下に付いている兎の毛通し(懸魚=げぎょ。雲のような形の飾り)は桃山時代の意匠だそうで、こんなところにも太閤さんの遺風が感じられます。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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