日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第3回。

■戦後日本の動向

 

 戦後日本を支配したGHQ(連合国軍最高総司令官総司令部)の最大の目標は、「鬼畜米英」を叫ぶ日本の軍国主義を廃して、親米英的な国家につくり変えることだった。GHQは皇居お堀端の第一生命ビルに本部を置いた。最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥は1945(昭和20)年10月、5つの指令を出した。

 1、特高(特別高等警察)、治安維持法の廃止
 2、労働組合の結成奨励
 3、婦人参政権の確立
 4、学校教育の自由化(男女共学、単線型6334制の創設)
 5、経済の民主化(労働3法、農地改革、財閥解体)

 それと同時にアメリカン・デモクラシーを指導理念に、それまでの修身・日本歴史および地理教育を禁止した。国体改革(象徴天皇制、国民主権)が進められ、大日本帝国の支配体制は音をたてるように崩れ去った。東条英機ら戦争犯罪人が逮捕される一方、政治犯・思想犯が釈放された。18年間にわたって獄中にあった徳田球一が45年10月に出獄し、GHQを「解放軍」と呼んだ。英雄視され日本共産党を再建、書記長に就任した。

 戦後最初の第22回衆議院議員総選挙が46(昭和21)年4月10日に行なわれた。改選数466議席、大選挙区制。結果は日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、そして戦前は非合法活動であった日本共産党が5議席を獲得した。49(昭和24)年1月23日に実施された第24回衆議院議員総選挙では中選挙区制が採用された。改選数は466議席で変わりはなかったが、民主自由党264、民主党69、日本社会党48、そして日本共産党は35議席獲得し大躍進を遂げた。

 さて、旧制北野中学校で藤田と同期だった松本善明は江田島の海軍兵学校で終戦を迎え、45年10月に同校卒業、46年4月、東大法学部を受験して合格した。海軍兵学校出身者が6人ほど合格、松本は3年間(当時旧制)彼らと多くの時間を過ごした。

 松本が東大に入学して一番勉強しようと思ったことは、「なぜ日本はアメリカと戦争したのか、なぜ日本はアジアへの侵略戦争を行なったのかを、哲学的に解明したかったからだった」という。

「最初の1年間は大学の授業によく出席して、先生方の講義をじっくり聞きました。そうしたら先生方は自分の著書を教科書にして講義しているだけだと気がつきました。それならば先生方に頼らずにとことん独力で勉強しようと思い立ちました。大学2年目からは授業には極力出ずに、毎日図書館に通い体系立てて本を読むことにしました」(松本)

 松本は軍国少年で海軍兵学校に進んだため、旧制高校生の必読書といわれた「デカンショ(デカルト、カント、ショウペンハウエル)」もヘーゲル、マルクスも読んでいなかった。戦後、日本共産党が公然と活動を開始すると、マルクス主義の入門書である『空想から科学へ』、『共産党宣言』、レーニンの『国家と革命』などは飛ぶように売れ、東大では青年共産同盟や日本共産党の活動家が幅を利かせていた。

 松本はそんな中で聖書から哲学書まで1年数か月がかりで読み込み、「観念論」が誤りで、マルクス・レーニンの唱える「唯物論」が正しいと確信した。こうして48(昭和23)年9月、日本共産党に入党するのである。49年3月、東大法学部卒業。日本共産党国会議員団に勤務、同年夏、神田支部で画家で絵本作家のいわさきちひろ(1918~74 *戦後最大800万部の大ベストセラー、黒柳徹子『窓際のトットちゃん』のカバー・挿画を描いた画家)と出会い、50(昭和25)年1月に結婚した。51(昭和26)年11月、25歳のときに松本は、司法試験に合格。54(昭和29)年4月、弁護士活動を開始した。