雑誌『歴史人』では、合戦の勝率から読み解く形式で、最強の戦国大名を選定、ランキングを付けるような記事の監修・執筆を担当したことが、これまでに何度かある。雑誌『歴史人』では、紙数の関係から語り尽くせない部分もあった。そこで、「BEST TIMES」を利用し、合戦の勝率の意味を語ってみたい、

 これまでは、以下の基準を満たす者についてランキングした。

 織田信長が上洛を果たした永禄11年(1568)の時点で、独立を保っている戦国大名に限定。豊臣秀吉は、信長上洛時点で独立大名と定義しがたいが、例外として対象に加えた。

 戦国大名ではなく、戦国武将という定義だと、ランキングの登場人物は次のようになる。

 

 1位の黒田官兵衛をはじめ、ランキング上位の武将は、織豊系大名が多数を占める。

 彼らは、主君の勝利した合戦に従軍することにより、高い勝率を維持できからだ。加藤清正は、鳥取城攻防戦で初陣を飾って以来、福島正則と武功を競い合うように勝ち星を積み重ねた。そして、賤ヶ岳合戦では、正則とともに七本鑓の一人に数えられ、出世街道を順調に突き進んだ。天正16年、ついには隈本(熊本)城と肥後北部25万石の領地を秀吉から与えられた。

写真を拡大 熊本城大天守。加藤清正の熊本城は震災で現在修復中。

 秀吉は、天下統一を果たしたのち、中国大陸への出兵を策しており、前線基地となる九州へ清正を赴任させたのだ。文禄の役では、豊臣勢は朝鮮半島において快進撃を続けたことから、清正は勝ち星を積み重ねている。明の援軍が朝鮮半島に進出すると、豊臣勢は苦戦を強いられた。

 だが、清正自身は配下の水軍部隊が朝鮮水軍との唐項浦の海戦において敗北を喫した程度に過ぎず、不敗神話は維持されている。清正は、名将には不可欠な運にも恵まれ、高い勝率に恵まれたといえる。織豊系武将が上位を占めるランキングも価値があるものの、雑誌では特集全体の構成を考慮したとき、ランキングに対してフィルターがかかった。 

 

 第96回の本多忠勝の戦績表と勝率の回では、肝腎の本多の戦績表を添付し忘れたので、改めて掲示しておいた。

  ここ最近は戦国武将の戦績表作成に追われた。いつか、別の形で再利用できると信じながらも、すでに忘却の彼方へなりつつある?