■ 守護代の朝倉家と織田家に翻弄される斯波家

写真を拡大 斯波義敏『少年日本歴史読本. 第15編』 (応仁の乱)萩野由之編(博文館)。

――将軍や守護らの権威、権力も失墜させた応仁の乱

 ここからさらなる乱世が始まるのだが、群雄割拠の戦国時代へはどのように移っていったのか?大乱の主要名家、まず斯波氏のその後と領土の変遷を追っていこう。

 

 応仁・文明の乱においては、当初、西軍についた斯波義廉が、被官の朝倉孝景・甲斐敏光らに命じて、東軍についた斯波義敏の勢力を越前から一掃するなどして優位にたっていた。

 だが、朝倉孝景が東軍に寝返り、将軍足利義政の命令に従って斯波義敏が中立を保つなか、朝倉孝景は実力で越前の平定に乗り出す。そして、朝倉孝景に敗れた甲斐敏光も東軍に転じたことで、斯波義廉は没落してしまう。

 そして、その斯波義廉は、文明7年(1475)、尾張上四郡を支配下におく織田敏広によって尾張に迎え入れられた。

 尾張は斯波氏の守護領国の一つであり、西軍についた織田敏広は、東軍についた下四郡の織田敏定と争っており、権威を高めるため、義廉を名目的な守護にしようとしたのである。織田敏広は、義廉を奉じて織田敏定を圧倒していく。

 すると文明10年、織田敏定が幕府から「凶徒退治」を命じられたことで、斯波義廉・織田敏広による支配の正当性が失われてしまう。これにより、義廉は領国としての尾張を失うことになった。

 一方、斯波義廉を尾張に追いやった形の斯波義敏も、依然として越前を朝倉孝景に奪われたままだった。文明11年、斯波義敏は、越前を朝倉氏から取り戻すべく子の義寛とともに越前への侵攻を図ったのである。

 この試みには、甲斐敏光ら反朝倉勢力も結集したものの、朝倉氏を越前から一掃するまでには至らなかった。文明13年に朝倉孝景は没するが、子の氏景が斯波義敏の勢力を国外に追放した。こうして朝倉氏によって越前は平定されたものの、斯波義敏の勢力は侮れないものがあったらしい。尾張で没落していた斯波義廉の子義俊が、朝倉氏景によって越前に迎え入れられたのである。もちろん、斯波義敏に対抗するための名目的な存在でしかなかったことはいうまでもない。

 それでも、文明15年には、斯波義俊のもとに斯波氏の守護領国がまとめられ、越前は朝倉氏、尾張は織田氏、遠江は甲斐氏がそれぞれ守護代として治めることになったのである。

 

 (次回に続く)