戦国武将の戦績表を作成し、野球の勝率やサッカーの勝ち点のような計算を延々と続けていた。やっと、最後の一人となった北条氏康の戦績表の作成と勝率計算を終え、泥沼からは離脱できたもよう。

 前回の第95回でも紹介したように、豊臣秀吉が支配下に従えた数千単位の城を勝ち星として計算すると、その勝率は10割近くになってしまう。

 となれば、適当に攻略した城の数は間引きしないと、勝率による戦国武将の評価という斬新な手法が成立しなくなる。

 秀吉の場合、自身の設定した基準による戦績は、このようになった。
143戦 106勝 15引分 22敗 勝率=7割4分1厘

小田原城遠望
戦国一の巨大城郭である小田原城を攻略しても勝ち星は一つ。勝率計算の意味を考えると、無間地獄へと落ちる!


 徳川四天王の一人として名高い本多忠勝の戦績表は、以下のようになった。
家康に過ぎたる名将も、無敗とはいえず、桶狭間合戦と三方ヶ原合戦では黒星を計上している。

 忠勝は、秀吉による関東平定作戦に従軍。別働隊を指揮し、まずは、玉縄城主の北条氏勝を降伏へと導いた。

 そして、房総方面の千葉氏などの城郭の接収作戦を実行。その結果、合計48もの城を攻略したとされる。

 この48という数字を勝ち星として計算すると、82戦 73勝 勝率8割9分となり、戦国屈指の名将という流れとなってしまう。

 そこで、48城のうち、拠点城郭といえる5城に絞ったところ、勝率7割3分5厘という穏当な数字になっている。

発掘調査中の本佐倉城
千葉氏は北条方とみなされ、所領は没収され、本拠の本佐倉城は本多忠勝によって接収された。HKS48=本多忠勝に攻略された48の城

 本多忠勝の戦績表作成のため、都立中央図書館や国会図書館において、伝記や関連する市町村史などをあたったものの、使い勝手のよい年譜類が見当たらず。

 帰宅後、書庫にある『家康の臣僚』という古典的名著を開くと、忠勝の履歴がほどよく掲載され、2時間で戦績表が作成できた。

 友人からの一言と、私の反論。
「そんな作業、編集者にだってできるだろ!?」
「やれるものならやってみろ!」

 戦国武将の勝率を計算し続けた結果については、位下の表を参照してください。

『歴史人』 2014年10月号より