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聖徳太子の悲願だった律令制度、大化改新後はどうなったのか?

聖徳太子の死にまつわる謎㉕

■中臣鎌足による皇位継承の辞退案と難波宮

写真を拡大 難波宮にも近い、聖徳太子の建立した四天王寺。

『日本書紀』をよく読んでみると、中大兄皇子が律令制度導入にあまり

積極的でなかったと思えてくる。それどころか、むしろ中大兄皇子はこ

の新制度をつぶそうとさえしていたのではないかと思われる。

 では、中大兄皇子が律令制度をつぶそうとした理由はあったのだろうか。

問題は、改新後の朝廷の動きにある。

  入鹿暗殺後の朝廷が最初に取り組んだ仕事は、皇位継承問題だった。皇

極女帝が譲位を申し出たのである。そしてこのとき、どういうわけかクー

デターの最大の功労者、中大兄皇子が即位しなかったのだ。

『日本書紀』の記述にしたがえば、このとき皇極天皇は、まず最初に皇位

を中大兄皇子に譲ろうとした。ところがこの申し出に対し、皇子の側近で

ある中臣鎌足は辞退するよう忠告する。

 

「古人大兄は殿下(中大兄皇子)の異母兄、軽皇子(のちの孝徳天皇)は叔父

です。それなのに、今殿下が即位すれば、人の道に反することになりまし

ょう。そこでしばらく軽皇子を立てて民衆の願いにしたがったほうがよい

と思われます」

 

 そこで中大兄皇子は母・皇極の譲位を断ったうえで、軽皇子を推挙し

たのである。

 こうして孝徳天皇が誕生し、都が難波(現在の大阪)に遷され、改新の

詔が出されるにいたった。ここに孝徳天皇を頂点とし、中大兄皇子が補

佐するといった新体制が築きあげられたのである。そして、これは朝廷

の律令制度整備のための布石であり、ここに聖徳太子の悲願は成就され

たと『日本書紀』は意味づけている。

 ところが、こういった『日本書紀』の示す大化改新と律令制度とい

う図式には、数々の腑に落ちない点が見られるのだ。

 たしかに孝徳天皇は日本に新しい風を入れようと努めた気配がある。

その好例として難波宮(正確には難波長柄豊崎宮と称される)を挙げる

ことができる。大阪城外濠の南側の高台に位置するこの宮は、完成当時、

目の前に海がせまった、水上輸送を眼中に入れた画期的な宮だった。

しかも発掘調査の結果、この宮の朝堂院の構造と規模は、のちの平城

京をもしのぐほどの広さであったことが分かっている。つまり、この宮

が藤原京・平城京・平安京といった都城のさきがけであったことは明ら

かである。

 ちなみに、難波宮が完成するまでの天皇宮は天皇が替わるたびに遷し

かえられるという、悪くいえば小屋に毛の生えたような意外と質素な

ものだった。だが、難波宮は 何代もの天皇が使用可能な構造になって

いた。(次回に続く)

『聖徳太子は誰に殺された?』(ワニ文庫)より

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関 裕二

せき ゆうじ

 



1959年生まれ。歴史作家。仏教美術に魅了され、奈良に通いつめたことをきっかけに、日本古代史を研究。以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。著書に『古代史謎解き紀行』シリーズ(新潮文庫)、『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』(PHP研究所)、『東大寺の暗号』(講談社+α文庫)、『新史論/書き替えられた古代史』 シリーズ(小学館新書)、 『天皇諡号が語る 古代史の真相』(祥伝社新書)、『台与の正体: 邪馬台国・卑弥呼の後継女王』『アメノヒボコ、謎の真相』(いずれも、河出書房新社)、異端の古代史シリーズ『古代神道と神社 天皇家の謎』『卑弥呼 封印された女王の鏡』『聖徳太子は誰に殺された』『捏造された神話 藤原氏の陰謀』『もうひとつの日本史 闇の修験道』『持統天皇 血塗られた皇祖神』『蘇我氏の正義 真説・大化の改新』(いずれも小社刊)など多数。新刊『神社が語る関東古代氏族』(祥伝社新書)



 


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  • 2015.07.18