■畠山氏内紛により南山城の国人支配という結末に

写真を拡大 応仁の乱『絵入名将百史伝』中村金水 著[他](中央出版社)国立国会図書館蔵

 一方の政長は義就の誉田城攻めでは政長配下の和田某以下30人余りの首を政長に送りつけるという、残酷な所行に慌てた。彼は年末にみたび管領となると、翌文明10年(1478)4月20日、山城守護職を幕府から与えられた。無論政長の運動によるもので、山城国の公家・寺社の領地の五分の一を取り上げ、それを義就との戦いの軍費に充てようと企んだのである。

これは政元や日野富子らの反対を呼び、短期間で頓挫し政長は面目を失った。だが、義就は政長の狙いを正しく把握し、文明14年(1482)12月、政長の山城草路城を陥れ、翌年3月にも山城で政長勢を破り、4月には山城狛城を攻略。7月に政元が義就と単独講和すると、それを名分に「政長追討」を掲げていよいよ戦線を南山城へとシフトさせていった。

 その後も両者は山城で軍事衝突を続けたが、ここで一大変事が発生する。

文明17年(1485)南山城の国人・農民達が国人一揆(山城国一揆)を結成したのだ。政長による締め付けと、政長と義就との度重なる合戦によって疲弊しきった彼らは、守護による支配を拒否するため団結したのである。これに対し、さすがの政長・義就もどうすることもできず、両者とも山城から引き揚げざるを得なかった。

 翌文明18年(1486)2月、一揆衆は宇治の平等院で「国中掟」制定にかかり、山城は「惣国」と称される自治制をとって幕府直轄下に入るのだが、伊勢貞陸(貞親の孫)が名目上の守護となった。

(次回に続く)