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日のあたる坂道

季節と時節でつづる戦国おりおり第364回

 アイドルグループ「けやき坂46」さんが「日向坂46」と改名し心機一転スタートとのニュース。「ひなたざか」と読むそうですが、元ネタは三田の日向坂で、こちらは「ひゅうがざか」と読むのが正しい、しかし悩んだ結果画数的に判断して「ひなたざか」にした、という解説も加えられておりました。

 個人的には、新潟方面で深刻な問題が発生しているなか、48さんや46さんのトップに君臨しておられる向きにあっては情報公開や再発防止対策に頭を悩ませるのが先決ではないか、とも思いますが、それはそれとして。

 話題として取りあげられたこの三田の日向坂、今後は訪れる方も多くなると思います。少し説明をしておきましょう。

 

 

 場所は麻布十番駅を出て南、南麻布1丁目の二の橋交差点を東へ曲がってすぐ。三田2丁目の坂です。江戸時代末期の切絵図(きりえず)を見ると、この坂の南側角地に「織田剛三郎」の屋敷があり、西に向かって門を構えていますが、この剛三郎は丹波柏原藩(たんばかいばらはん)8代藩主、織田出雲守信敬(おだ・いずものかみ・のぶのり)のことです。

 この柏原藩織田家の屋敷の前の持ち主、毛利日向守就隆(もうり・ひゅうがのかみ・なりたか)だったことから、屋敷横の坂もそれにちなんだ「日向坂」の名前が定着しました。ちなみに、現在の三田共用会議所の全部、それにオーストラリア大使館の西端が該当地です。

 この名の元になった就隆について見てみましょう。関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康に対抗し西軍の総大将となった毛利輝元の次男として、慶長7年(1602)に生まれています。

 下の子ということで輝元は相当就隆を可愛がったようで、慶長16年(1611)に就隆が数え10歳で初めて駿府の大御所・徳川家康と江戸の将軍・秀忠に拝謁するため東に下った際には付き添いの大和次郎右衛門国家という家来に「三次郎(就隆の通称)の気分は良い(心身とも快調)か、報告してくれ」と書き送っています。大坂冬の陣にも、父の名代として家康・秀忠に挨拶をしました。

 そんな育ちですから、どうもこの就隆、天真爛漫なお坊ちゃまだったようです。3代将軍・家光の乗馬に物怖じせずお相伴するなど快活な社交派でした。このあたり、まさに「日向=ひなた」の存在と言えるでしょう。

 そういう性格ですから、のちに兄の秀就の毛利本家の支藩という立場に満足できず、独立して幕府に直属しようと運動しましたが、驚いた秀就が幕府に必死に働きかけ、なんとか事なきを得ています。詰めの甘さもお坊ちゃま、といったところでしょうか。

 というわけで、今度日向坂を通られる機会がある方は是非この就隆さんの御屋敷があった当時をしのんでみて下さい。あっけらかんと明るいひなたのような就隆さんの笑い声が屋敷跡から聞こえてくるかも知れませんよ。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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