■もとは身を清める日だった3月の節供

もともと3月の節供に雛人形は飾らなかった…。

 

 

 

 3月の行事といえば、まず頭に浮かぶのが雛祭りだろう。デパートなどでは正月飾りがとれるとすぐにも雛人形が並び、春の到来が近いことを教えてくれる。
 しかし、3月の節供が今のような形になったのは江戸時代のことで、かつては雛人形などを並べることはなかった。
 そもそもその日取りも今のように3月3日ではなく、陰暦3月に2度ないし3度ある巳の日のうち最初の日に行われるものであった。ここから3月の節供を上巳(じょうし)の節供という。

 中国では上巳は陰陽のバランスが崩れ邪気が入り込みやすくなる日とされ、体に邪気が入らないよう水辺で体を洗う禊(みそぎ)が行われた。

――いや、ちょっと待って、禊は神道の儀礼だろう!

 そう思われた方もおられるだろう。たしかに〝みそぎ〟は罪・けがれを祓うための神道の重要な儀礼で、その起源はイザナギの命の神話にさかのぼるとされる。

 この神道の〝みそぎ〟と中国の禊がどういう関係にあるのか不明だが、中国の禊も歴史は古く、周の時代(紀元前1050頃~771年)にはすでに行われていたとされる。おそらく古代日本の神職や官僚は中国の禊を日本の〝みそぎ〟と同様のものと考え、〝みそぎ〟の漢字表記に「禊」を当てたのだろう。

 さて、上巳の節供に話を戻すと、漢時代末期(紀元前後頃)に水辺での禊は曲水の宴に変化した。曲水の宴とは曲がりくねった小川のほとりで宴を行い、盃を流れに浮かべるものをいう。この時、盃が自分の前を流れ前に詩歌を詠むものとされた。

 いっぽう日本では、紙や土で作った人形で体をこすったり息を吹きかけることで自らの罪・けがれをこれに移して川などに流す、流し雛の習俗があった(「流し雛」と呼ばれるようになったのは後世のことと思われるが)。
この流し雛と曲水の宴が結びついて〝雛祭り〟ができたとされる。

 平安時代の流し雛の様子は『源氏物語』須磨の巻に描かれている。

 三月最初の巳の日に「今日こそ、このようにご心配がおありのお方は禊をなさるものです」と知ったかぶりをした者があるので、海辺を見たくもありお出かけになる。いかにも粗末な軟障(ぜんしょう、幔幕のこと)ばかりを張りめぐらして、この国に行き来していた陰陽師を召して、祓いをおさせになる。舟に仰々しい人形(ひとがた)を乗せて流すのを御覧になる・・・(玉上琢彌訳)

 人形を流さずに飾るようになったのには、貴族の子女の雛遊びの影響もあるとされる。一説には立ち雛は流し雛、座り雛は雛遊びの流れをくむものだという。

 雛遊びについても『源氏物語』に記述がある。こちらは紅葉賀の巻である。

 姫君は、いつの間にかもう、お人形を並べて、お忙しそうにしていらっしゃる。三尺の対のお厨子に、さまざまの道具を飾り並べ、また小さなご殿を数多くこしらえておあげになったのを、部屋(かざりだな)いっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。(同前)

 今のドールハウスやリカちゃん人形と遊び方は大きく変わっていないことがわかる。

 巳の日から3月3日になったのは、5月5日・9月9日のように縁起のいい陽数(奇数)が重なるのを古代中国人が好んだからで、魏晋時代(2~6世紀)頃には上巳は3月3日のこととされていたようだ。

 しかし、罪・けがれとともに流し捨てるものであった人形を、なぜ飾りつけるようになったのだろうか。

 先に雛遊びの影響と書いたが、実際には雛人形が遊具とされることはなく、神像を祀るがごとくに飾りつけられる。仕舞うのが遅れると婚期も遅れるという俗説も含め、そこには語られぬ信仰があるような気もするのだが深読みのしすぎだろうか。

 かつて奈良の法華寺では3月に「ひな会式」(雛の会)という行事が行われていた(現在では4月1日~7日)。

 これは雛人形を並べるというものではなく、善財童子という少年の像を五十数体仏前のひな壇に並べるというものだ。

 『華厳経』によると善財童子は真理を求めて53人の賢者を訪ねたとされ、この行事はその様子を再現して善財童子の徳を讃えるものである。

 この行事は平安中期に成立した『三宝絵詞』にも書かれており、雛祭りの成立よりずっと古い。

 具体的な証拠があるわけではないが、これも雛祭りの起源の一つと考えていいのではなかろうか。

法華寺。

 

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