■「ツィタデレ」作戦が遅れた理由

塹壕線に陣取り、PM1910水冷式機関銃を構えたソ連軍兵士たち。「現代機関銃の父」として知られるハイラム・マキシムの設計に手を加えて1910年に制式化された古い機関銃ながら、抜群の信頼性で大祖国戦争(第二次大戦のソ連側名称)でも重宝された。フェルディナント重駆逐戦車は、彼らソ連兵が頑強に守る陣地を次々に突破した。

「ツィタデレ」作戦の開始時期が遅れたいくつもの理由のなかに、「戦車ヲタク」のヒトラーが、当時生産が開始されたばかりの新型戦車の部隊配備を待ったことも含まれているのは有名な話だ。

 その新型戦車のひとつが、フェルディナント重駆逐戦車(拙稿『無敵重戦車ティーガーI戦記第2回:第二次大戦期ドイツの最先端戦車ヘンシェル社とポルシェ社の競合で誕生(2018年02月14日配信)』参照)であった。本車はティーガーI重戦車開発の過程において競合車として誕生したもので、ヒトラーに贔屓にされていたフェルディナント・ポルシェ博士が設計に携わった。ところがヘンシェル社製の競合車が採用されて敗れ、車体のみ先行生産されていたため、それに重装甲のカーゼマット式戦闘室を結合。そこに同じ8.8cm砲ながらティーガーIのものよりも強力な71口径8.8 cm砲Pak 43を搭載した、「動くトーチカ」ともいうべき重駆逐戦車にリメイクされたのだった。

「試作車崩れ」の車両であるため、生産数は90両と少ない。これを第653、第654の両重駆逐戦車大隊に各45両ずつ配備。さらに第216突撃戦車大隊なども加わって第656重駆逐戦車連隊が編成され、「ツィタデレ」作戦において北方から南下する「上顎役」の第9軍隷下、第41装甲軍団に配置された。

 実に200mmもの車体前面と戦闘室前面の装甲厚を誇るフェルディナントだが、不整地走行時の最高速度は約10kmほどと鈍重で、全周旋回砲塔も備えていない。

 開発当初の運用構想は、敵戦車の砲が本車の装甲を貫徹できない遠距離から、自らの優れた8.8cm砲で「狙撃」して撃破し、敵を近づけないという防御戦闘を強く意識したものだった。そのため、戦闘室上面のハッチに車長が半身を晒して使用する、脱着式で普段は車内に収納されている機銃以外、砲同軸機銃や車体前方機銃など個車防御用の固定機銃は装備していなかった。

 

 ところが「ツィタデレ」作戦では、このような特殊な運用を企図したフェルディナントに、一般的な戦車や突撃砲と同じく、歩兵部隊を先導して敵陣を突破する任務が与えられた。その理由は、重装甲の本車なら、パック・フロントからの激しい阻止砲火に耐えて突進できると判断されたからだった。
「正面にPakの発砲炎!砲手、榴弾を見舞ってやれ!」
「敵の塹壕線を踏み越えたぞ!イワンの近接攻撃に注意しろ!」
「右側のT-34縦列が側面に回り込む前に全部潰せ!」
「味方の歩兵はどうした? なぜ一人もいないんだ? 敵陣が確保できんぞ!」
 そう、フェルディナントは鈍足だったが、その重装甲にものを言わせて、予想通りソ連軍自慢のパック・フロントを片っ端から蹂躙して突進。敵陣に穴を開けるのに成功した。だが激しい弾雨のなかを「生身の将兵」が本車に追随するのは困難で、ドイツ軍歩兵は後方に取り残されてしまった。

 その結果、敵陣内深くにフェルディナントだけが飛び込んでしまい、ソ連兵の近接攻撃に晒されることになったが、ここで固定機銃を持たない弱点が表面化。やむを得ず、一部の本車は8.8cm砲の砲尾を開け、収納搭載していたMG42機銃の銃身をそこに突っ込んで車外を射撃したという。

 だがフェルディナントに乗って戦った将兵は、砲の大威力と重装甲が足の遅さを補って余りあると判断し、好評を得た。そのため、わずか90両しか生産されなかったフェルディナントだが、クルスク戦のあとで残存車はいったん引き上げられて車体銃を装備するなどの改修を施されたうえ、エレファントと改名されてドイツの敗戦まで使い続けられた。