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雑草軍団で勝つ。「オレたちにも出来る」清宮克幸が日本ラグビーに与えた勇気

降格の危機を救い日本一も経験。ヤマハ発動機を変えた名将の軌跡

■降格の危機にあったヤマハ発動機に来た理由

 ヤマハ発動機は、2002年度に関西社会人リーグで初優勝を飾り、トップリーグ発足元年の2003年度はリーグ戦3位、翌04年度はリーグ戦2位、マイクロソフト杯準優勝の好成績を残したが、以後は低迷。09年度にはリーマンショックによる業績悪化を受け、活動縮小を発表。休廃部こそ免れたが、プロ選手は契約解除または社員化され、もともと社員だった選手からも他チームへ移籍する者が続出した。40人に満たない選手で活動した2010年度はリーグ11位に低迷
し、下部リーグとの入れ替え戦出場を強いられた。

 そんなヤマハに、清宮が着任したのはなぜだったのか。 

 29日の会見で、清宮は「現会長の柳(弘之)さんが新しく社長になったのがポイントだったんです」と明かした。柳社長は清宮に「ヤマハ発動機という会社はスポーツを生業として大きくなった会社だ。その会社がスポーツをやめて、会社の経営がうまくいくとは思わない。スポーツもやる、経営の建て直しもやる。そのために、清宮さんの力を貸してください」と言ったそうだ。

「心が動きましたね」と清宮は振り返った。

 ヤマハには、早大監督時代の教え子も多くいた。監督就任3年目のキャプテンだった大田尾竜彦をはじめ、矢富勇毅、五郎丸歩……プロ選手として活動していた彼らの元には他チームから移籍を受け入れるオファーが多数届いたが、大田尾は「清宮さんが来てくれるならヤマハに残りますよ」と伝え、社員契約に切り替えてヤマハに残留した。大田尾の決断を追うように、早大の後輩の矢富と五郎丸、佐賀工の同期の山村亮と中園真司……他チームからオファーの殺到していた選手たちが、イバラの道を覚悟でヤマハ残留を決断した。

 だが、苦労は予想以上だった。

「大学生は、なかなか静岡へは来てくれないんですよ」

 ヤマハの監督に就任して1年後、清宮の口からそんなボヤキを聞いた。ラグビートップリーグの加盟チームはほとんどが日本有数のトップ企業で、関東や関西の大都市圏に本拠地があり、大学生の有力選手もまた、ほとんどが関東や関西の大都市圏の大学に集中している。多くの学生は土地勘のあるところでの生活を選んだ。ラグビーで世界と勝負していこうとするトップ選手にとっては、プロ契約を選べないヤマハは選択肢に入らなかった。

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大友 信彦

おおとも のぶひこ

1962年5月7日、宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高から早大を経て1985年からスポーツライター。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』『WEBマガジン RUGBY JAPAN 365』などに執筆。著書に『奇跡のラグビーマン村田亙』(双葉社、2005年)、『オールブラックスが強い理由』(東邦出版、2011年)、『エディー・ジョーンズの監督学』(同、2012年)、『不動の魂』(実業之日本社、2014年)など。


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