■「地元の酒米で酒を造りたい」その情熱が幻の品種を復活

「古い蔵で驚いたでしょう」

 そう言って顔いっぱいに笑顔を浮かべて現れたのは府中誉の山内孝明社長だ。敷地面積約二千坪、明治期の建築が縦に長く横たわる府中誉は安政元年(1854)創業の造り酒屋。山内さんで7代目に当たる。

 ここでは茨城県産の「短稈渡船(たんかんわたりぶね)」という酒米を使っている。短稈渡船は今でこそ酒米として知られているが、山内さんが復活栽培するまでは誰も知らない幻の酒米であった。良質な酒米ながら栽培が非常に難しく、数十年にわたり途絶えていた品種。平成の世にその酒米を復活栽培した苦節のストーリーは、多くのメディアに登場して話題を呼んだ。それから約30年、府中誉はこの酒米をどう育んできたのだろう。ここではまず短稈渡船の復活物語からひもといてみたい。

 山内さんは大学卒業後に東京にある酒類卸売会社に勤め、後に国税庁醸造試験所(現・酒類総合研究所)で日本酒造りの基礎を学んだ。大手の酒類卸売会社で働いたことで、酒業界への見分が広まり行くべき道が見えたという。

 27歳で家業の造り酒屋に戻った山内さんは「地酒であるなら地元の酒米、地元の水を使って酒を造りたい」と考えた。なぜならば自分たちのような小さな蔵は、これからは個性を発揮しないと生き残れないと確信していたからだ。ところが地元の酒米を探してみると全く見つからない。これには愕然とした。

「茨城は農業県なので米はたくさん作っています。ところが酒米がないんです。食米として優秀な米ができるので、わざわざ酒米を作る必要がなかったのでしょうね。それなら自分でやるしかないと覚悟を決めました」

 最初は山田錦を作ろうとチャレンジしたものの、制度上の問題があり壁に突き当たることに。どうしたものかと思案している時、ひょんなことから短稈渡船という酒米を知ることになる。当時、酒造りを手伝いに来ていた70代の農家の男性から「昔、じいさんが酒米を作っていた」という話が出たのだ。その酒米の名が短稈渡船だった。周囲の誰もが知らない酒米だったが、調べてみると確かにあった。

「山田錦の父方に当たる米です。ただ作るのが非常に難しく、数十年にわたって栽培が途絶えていました。誰も作っていないならかえって面白い。しかも地元で作っていたのなら、なおさらその酒米で酒を醸したいと思いました」

 そこからは種籾探しに奔走することになる。全国に問い合わせてみたが「知らない」と言われるばかり。1年ほど探し回って諦めかけていた頃、県の農業改良普及所の先生から「つくば市にある生物資源研究所には残っているかもしれない」との助言をもらった。

 全国を探してなかったものが、なんと同じ県内に眠っていたのだ。そこで分けてもらった14gの種籾から復活栽培した短稈渡船で醸した「大吟醸 渡舟」は、1996年に全国新酒鑑評会で初めて金賞を獲得する。一躍、全国に短稈渡船の名前が知られたのだ。

 出会いからおよそ30年、府中誉では短稈渡船を使った旨い酒を造るため、技術に磨きをかけてきた。現在の醸造責任者は中島勲さん。寡黙だが蔵人を引っ張っているたたき上げで、酒とじっくり向き合うタイプだ。山内さんと中島さんは、二人三脚で酒造りにはげんでいる。

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